Я[大塩の乱 資料館]Я
2011.9.17

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「大塩の乱関係論文集」目次


『北区誌』(抄)

その14

大阪市北区役所 1955

◇禁転載◇

第二章 江戸時代の繁栄
  三 水陸の交通と天満青物市場
     物資の集散と水運(1)
管理人註







天下の台所













菱垣廻船






















過書船
















三十石船


























上荷船、茶
船

 江戸時代のわが国の経済界を牛耳り、幕府の倒壊という政治的変革を もたらしたものは実に大坂の財力であった。大坂が両替屋、掛屋によっ て金融の中心となり、他方において貨物集散の大市場であったのに比較 すると江戸、京都は小売場たるに止まり、大坂をして「天下の台所」と                              たび 称せしめるに至った。蒲生君平(一八一三歿)は「大坂の豪商一度怒っ て天下の諸侯憚るるの威あり」と述べたが、かかる大坂の発展は、その 水運の便が然らしめたものであった。すなわち淀川の水運と瀬戸内海地 方から二百石乃至千石積の廻船や宮船の往来とが、大坂の経済力を培う たものであり、「天下の貨七分は浪華にあり、浪華の貨七分は舟申にあ り」(広瀬旭荘「九桂草堂随筆」)と評された。              ひ がき  大坂に出入した船にはまず菱垣廻船がある。元和五年(一六一九)堺 の船問屋が紀州富田浦から二百五十石積の廻船を借受けて、江戸行の荷 物を運搬したのが最初で、廻船問屋という商売が世間で認められるよう になり、米穀・油・酒・醤油・木綿などを江戸に運んだ。船舷に竹で菱 形の垣を設けて積荷の落下を防いだので菱垣廻船という名が起きたとい い、またその仲間の一人、塩屋は諸国の船持に呼びかけて船をチャーター して傭船料を払う契約を結び、その印に船の横っ腹に菱垣の模様をつけ させたことから菱垣船と呼ばれるに至ったともいう。享保十五年(一七 三○〉に大坂、伝法両地の廻船問屋が競争して伝法の問屋が西ノ宮、灘、 伊丹などの酒造家の後援を得て、酒荷物だけを分離するようになり、樽 廻船と呼ばれて菱垣廻船問屋との間に紛争がつづいた。  過書船(過所船とも書く)は伏見から大坂、伝法、尼崎間を往来する もので、仲間を作って船切手をこしらえ、出入の都度にその船切手を検 査したもので、これが過書船の名の起りで、天正年間(一五七三−一五 九一)過書船を支配したものは河村兵三郎、木村孫三郎の両名であった。 そののち角倉与一が河村氏に変り、慶長八年(一六〇三)十月、家康か ら舟行範囲を伏見・尼崎間と定められた。寛文年間(一六六一−一六七 二)過書船仲間のうち三十石以上の船主が同盟して、石清水八幡宮の社 務所の支配を受けていた「淀二十石」の排斥を企て相争うたこともあっ た。三十石船は吃水の浅い客船で、これが淀川を上下したので「三十石」 というのが淀川船の代名詞のようになっていた。長さ十五間、幅二間余 の小船で二十八人乗、船頭四人というきまりで、積石数をもって呼ばれ、 享保七年(一七二二)、伏見奉行の支配する新船として、伏見船二百隻 が許可された。三十石船は寛政・享和(一八〇〇前後)の頃には上り船 は一人前百四十四文、下り船はその半額七十二文であった。  三十石船の船頭たちが歌を唄ったが、つぎのように場所によって歌詞 を異にしていた。   (毛 馬) も早や明けたか東は白む、背戸で狐がコンとなく   (将基島) 見たか見て来たか、大坂の城を 前は淀川 船がつく   (八軒家) ねむたかろけど起きて目をさませ 此処は大坂の八軒家   【八軒家(「浪華の賑ひ」安政2年刊行) 略】  市内諸河川の運送にあたるものを上荷船、茶船と称し、松平忠明が城主 となってから、これを役船として官物運搬、落橋小渡しの公役に服せしめ た。上荷船は二十石積、茶船は十石積で、何れも年々若干の運上銀を納め、 船着場は川崎・天満・三軒家(難波橋北詰)・過書町(東区北浜)・船町・ 福島・野田・伝法などであった。上荷船の名は川口から本船の上荷を取る ところからきており、 問屋から荷物を本船に積むにも上荷船や茶船仲間 の特権が厳としていた。

   

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