元禄七年(一六九四)十二月通い船所有者に対して取締があり、宝永
二年(一七〇五) 曽根崎村の農民が尿船に大根の積荷しているのを、
茶船仲間にみつけられて差留められたので、農民側が町奉行に訴訟して
争ったところ「向後小便船に青物類を積んで、町家に売りに出ることは
停止」する旨諭され、農民側の敗訴となった。通い船に他人を便乗させ
たり、自他の荷物を運搬することを禁ぜられていたが、出入の家に進物
として青物類四・五把を積むことはこやし取に行く時に限って許された。
このほか川船として土船、石船、砂船などあり、古剣先船は正保三年
(一六四六)、新剣先船は延宝二年(一六七四)許され、平野川を往復
した柏原船が大坂と近接村落との運搬のために用いられた。
宝暦二年(一七五二)十月四日達の覚書にみえる大坂諸川船の総隻数
は左の通りであった。(山口幸太郎著「中之島誌」による。原文のまま)
過書船 二百石積より三十石積まで 惣船数 七四〇
淀住船持 二十石積 船 五〇七 淀上荷也
伏見船 二〇 但新三〇石也
上荷船 一、五九五
新上荷船 五〇〇
茶 船 一、〇三一
新茶船 三〇〇
剣先船 古剣先 二〇一
新剣先 一〇〇
柏原船 七〇 但剣先也
〆船数 五、二四四
遊山客を乗せることを営業とするものには屋形船があり、川口、住吉、
堺、尼崎までの遊山船として扱われ、淀川を淀、伏見まで上るときは過
書船仲間に上前銀を出して切手を受取った。
川筋取締に関しては慶安二年(一六四九)四月の触書が最も古いが、
正徳元年(一七一一)に川筋掟札が天満・三軒屋・九条・伝法・柴島そ
の他に建てられ、左の五カ条が記されていた。
(一)川筋の葭は縦令本田高に加り居るも毎年四月、五月、七月、九
月の四回に刈捨つべく、且つ流作は堅く禁制たり 流作並に葭刈
捨場の土は何人たりとも所望次第之を取るべし
(二)猥に堤上に竹木を植え家屋を建つべからず 総て堤筋は明白に
見えるを宜しとす
(三)川際は本場に限り外島川除を施し川端を猥に築出すべからず
(四)川筋島々に繁殖せる竹、木、柳其他雑木の類は掘拾つべし 総
て外島に葭の根を植え、又は挿樹を為すべからず
(五)外島に小堤を築くべからず
さらに川筋には「船舶の出入に不自由なるやう船をつなぎ置くべから
ず」など記した船の捉札が設けられた。
当時の川浚には大川浚・内川浚・両川口浚の三に分れ、大川浚の費用
は堂島新地の地子銀、内川浚は堀江上荷船の船床銀、両川口浚は入津の
船舶から石銭(一石につき銭三文)を徴してこれを行った。
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