Я[大塩の乱 資料館]Я
2011.9.19

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「大塩の乱関係論文集」目次


『北区誌』(抄)

その16

大阪市北区役所 1955

◇禁転載◇

第二章 江戸時代の繁栄
  三 水陸の交通と天満青物市場
     天満青物市場
管理人註



















天満青物市
場







魚類商































市場の取締



























乾物商組合

 大坂三郷が「天下の台所」として繁栄するにつれ、大坂三郷の台所と して市民の生活必需品である蔬菜、干物類の需給にあたって繁昌したの が天満青物市場であった。  はじめ秀吉が市街の経営にあたるにおよび、自然発生的な成長をとげ ていた青物市場を京橋の土堤下に移転せしめた。その後、慶安四年(一 六五一)に至って市場は京橋の片原町(いまの都島区相生町)に移され たが、青物は青物、魚類は魚類でそれぞれ特有の事情があるので町奉行 に嘆願し、承応二年(一六五三)七月許可を得て、青物商は乾物及び生 魚の一部とともに天満の地を選び、市場の区域を天神橋北詰から東へ、 浜通を龍田町西角までと定められ、これが天満青物市場として発展した。 当初は五十三戸で往来の人も少なかったが、周辺から移入される蔬菜・ 果実・干物類そのほか附属品の取扱販売によって次第に繁昌し、八軒家 にも近く旅客の便、物資の輸送に恵まれて賑わった。             うつぼ  そのとき魚類商の大部は靭町(いまの東区伏見町一丁目)に移り、乾 物及び魚類商の一部は天満七丁目裏町に移ったが、のち天神筋町に移っ て天満魚市場として明治年間までつづいた。さきに元和二年(一六一六) 川崎に東照宮が造営されたが、魚商は毎年四月十六・七両日の祭典には、 臨時に天満五丁目(市の側より二筋北の東西の通)に出店して魚類を販 売したので、この地を俗に「魚の棚」と呼ぶようになった。          ざ こ ば  堂島の米市場、雑喉場の魚市場とともに天満の青物市場は大坂の三大 市場の一に数えられ、各自が全力を尽くして市場の発展に努め、また幕 府も大いに保護を加えたので隆昌に向い、全市唯一の蔬菜果物の独占的 な供給市場となった。市場は延宝二年(一六七四)六月の淀川洪水に見 舞われて川普請が行われたが、普請のあと貪慾な家主らは家賃の値上を 断行しようとしたので、業者らは市場の移転を策したが、龍田町ら八カ 町年寄の調停によって見合わせたこともあった。また堂島新地、堀江、 曽根崎新地などから青物市場の新設が願出られたが、その都度、町奉行 の許可するところとならなかった。幕府の保護はますますあつく、明和 九年(一七七二)一月、問屋四十名に株の免許があって、ここに問屋と 仲買の区別は確立し、年行司外一名を選挙して仲間一般の事務を委任し た。諸国の荷主から廻送して来る蔬菜・乾物は必ず問屋が引受けて、市 立または直組をもってこれを売却し、仲買から相当の手数料を受取り、 仲買は問屋から、小売商人は仲買から買受けるよう定まった。  その後、天保十三年(一八四二)老中水野越前守の意見によって全国 の株制が解かれ、取引は各自の自由となり、仲買・小売の別なく市場に 入って直接荷主と売買をするようになった。それがため私利に惑うもの のために価格は標準を失い、倒産するもの続出し混乱をきわめ、ついに 問屋二十名、仲買八十名を減じて市場は荒涼としたが、町奉行の厳重な 取締によって一時秩序を回復した。安政四年(一八五七)再び株制を解 かれ、奸商が市場に入って規律を乱したので、翌五年四月直売買廃止を 令し、ついで翌六年には直売買厳禁の警告があり、ようやく市況を維持 することができた。  慶応年間、乾物取扱者は別に乾物商組合を組織して、青物市場から全 く分離して天満裏市場となって昭和初年までつづいた。  天満青物市場は天満宮への信仰が厚かったが、天保三年六月、市場の      だんじり 問屋仲間は地車を曳出すにあたり、破損個所の修理を終ったので修理先 である堀江から平野町に出たとき、川崎一丁目の地車と出合ってたちま ち喧嘩となった。ようやくそれも解決して天神橋に至り、橋台から三間 ばかり渡ったとき異様な物音とともに橋杭が折れて、地車は若衆もろと も墜落するという事件があり、これが救助船のため両岸は松明火で昼を 欺くほどの大騒ぎがあった。この由緒ある地車も天保八年の大塩の乱に 焼失したという。

   
 

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