Я[大塩の乱 資料館]Я
2011.9.20

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「大塩の乱関係論文集」目次


『北区誌』(抄)

その17

大阪市北区役所 1955

◇禁転載◇

第二章 江戸時代の繁栄
  三 水陸の交通と天満青物市場
     陸上の交通
管理人註






街道


















天神橋筋


市の側




















魚の棚筋


霊符筋









飛脚制度




















米飛脚

 大坂三郷における主要な交通路は内外ともに河川によっていたが、当 時の船着場は天満橋と天神橋の中間の南岸にある八軒家であり、(戦前 まで「八軒家」という市電の停留所があった)水陸交通の要衝であった。 当時における江戸西国間の道路としては三島郡山崎から豊能郡伊丹に通 ずる西国街道であったが、参勤交代の諸侯などはこの本道によらず、京 都から京街道(大体いまの国道一号線)を守口を経て京橋へ来るか、ま たは舟で淀川を下って八軒家に上陸し、十三渡を経て西宮で西国街道に 復するコースをとることが多かった。  物資の運搬は水路によっていたので、道路は単に人の往来の用をなす に過ぎず、幅員も狭く、東西の道路は四間四分、南北の道路は三間三分 を普通とした。市中の道路は交通の要衝であった八軒家、それに近い天 満青物市場や堂島を中心として四通八達していたといってもよく、南北 を貫通して最も長いものが天神橋筋(十丁目筋)で、南北五十九町四十 三間と称せられた。東西に貫通する最も長い道路は天満浜側筋で、市の 側とも称されたのは天満橋北詰から天神橋北詰にかけて天満青物市場の 側を通っていたからである。市の側は天神橋北詰をさらに西へ西天満・ 福島を経て遥か安治川北辺に達する当時の幹線道路で東西五十三町と称 された。  こうして天満宮、天満青物市場附近は交通の便に恵まれて多くの人を 集めたが、人の集まるところ自ら歓楽街を生むこととなった。天満宮の   れいふ 東に霊符があり、天満社地に八軒、その近くに大鏡寺前、その南に接し  しんやしき て新宅(東寺町前)などが遊所として繁昌し、安政四年(一八五七)に は何れも公許の遊所であった。  魚の棚筋は市の側より二筋北の東西の道路をいい、魚鳥商人が川崎東 照宮の大祭に際し、ここに臨時に出店をしたことに由来している。遊所 のあった霊符筋は天神表門筋の北の道路で、天満宮の東門、此花町二丁 目から東に達し、その名は天満宮境内社の霊符神に因むでいた。興門小 路は興正寺の両側から出て境内を東西に貫ぬく道路を指し、興正寺門跡 小路の略であった。  江戸時代の通信制度は飛脚で、はじめ官営の飛脚であったのだが、民 営の飛脚制度ができたのは大坂落城の後寛永十六年(一六三九)に非公 式にこれを商売としたのがはじめで、寛文三年(一六六三)江戸大坂間 に月三度の飛脚を許きざるを得なくなった。定飛脚問屋として看板を掲 げるべく安永二年(一七七三)ときの道中奉行安藤弾正に官許を願出た ところ、天明二年(一七八二)十一月に九人の願出人に対して名義が許 され、定飛脚の会符のついた荷物で、鑑札を持った宰領がつき添ってい るときは伝馬所から人馬の供給を仰ぐことができた。この九軒の定飛脚 問屋が後に一軒廃業して八軒になり、後は名義人こそ変ってきたが、明 治五年三月まで続いていた、これが八軒家の地名の由来であるという。  米飛脚としては江戸末期の文化三年(一八〇六)に大坂の島屋が西国 各地方に往復するようになった。明治元年四月京都に宿駅会所が開かれ、 飛脚屋の反対を排して政府は郵便物の取扱を国営とするに決し、いわゆ る新式郵便として明治四年三月一日から郵便切手売捌所が設けられるこ とになり、北区内では常安橋北詰と天満宮社内の二カ所に売捌所が設け られた。他方飛脚屋は貨物運送を取扱う陸連会社を設立した。

   
 

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