Я[大塩の乱 資料館]Я
2011.9.22

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「大塩の乱関係論文集」目次


『北区誌』(抄)

その18

大阪市北区役所 1955

◇禁転載◇

第二章 江戸時代の繁栄
  三 水陸の交通と天満青物市場
     河村瑞賢の治水(1)
管理人註







天満堀川の
開さく
































延宝二年の
水害

 大坂の繁栄をもたらした水路の多くは葦荻の茂った砂洲を新たに開さ くしたか、多分に人工を加え、あるいは改修を施してできたものである。  天満堀川の下流(いまの扇町・樋ノ上町間)は慶長三年(一五九八)、 東横堀川・西横堀川にさきだって掘さくされたものである。東横堀川は もと安曇江といったものを秀吉の築城のとき、西の外堀として拡げたも ので今日では当時より川幅が狭くなっている。  道頓堀川は慶長十七年(一六一二)河内の安井道頓が二弟治兵衛・九 兵衛及び親戚の平野藤次とはかって、郷里久宝寺村の農民を使役して掘 さくに着手したもので、道頓堀川の称は松平忠明が命名したものである。 忠明入城後、伏見の町人を移植して、いまの束区伏見町が開かれ、伏見 堀(いまの京町堀川)ができた。寛永二年(一六二五)に長堀川、つづ いて立売堀川、薩摩堀川など開さくされた。  四貫島・九条島はこの頃まだ芦が茂り、風波が至れば沿岸が浸される という有様であったが、寛永元年(一六二四)幕府の役人香西哲雲(高 西夕雲とも書く)が土地の豪家他山新兵衛と謀つて工を起し、この大工 事を完成した。  大坂繁栄の水路は氾濫の水路でもあった。延宝二年(一六七四)六月 十三日からの大降雨に淀川の増水は一丈四尺と称され、大和川の水と合 し、天満・長柄から尼崎に至る間に氾濫して市中は舟で往来した。これ がため十四日以来、町奉行・与力同心・惣年寄・町年寄らが上荷船夫・ 大工・鳶人足・日傭人足を指揮して、蔵屋敷をして濡米を売らしめ、ま た救助米をもって窮民救済にあたった。諸橋の落失するもの数知れず、 十八日以後に至ってようやく水量を減じ始めたが、「摂陽奇観」による と「この時溺死するもの幾万人とも数知れず未曽有也」とある。  時あたかも将軍綱吉が鋭意治を図っていたときのこととて、根本的に この水患を治め、恩恵を施そうと、まず若年寄稲葉石見守正休に命じて 実地を視察せしめた。一行のうちにあった河村瑞賢はこの方面にかけて 頗る才能があり、治水の策をたてたので幕府は瑞賢に一切を委せること とした。大坂の治水は仁徳天皇の後、多くの先人たちの功績であるが、 なかでも河村瑞賢は忘れることのできない功労者である。

   

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