Я[大塩の乱 資料館]Я
2011.9.6

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「大塩の乱関係論文集」目次


『北区誌』(抄)

その3

大阪市北区役所 1955

◇禁転載◇

第二章 江戸時代の繁栄
  一 城下町としての発展
     天満組惣会所
管理人註



大坂三郷の
天満組













惣年寄
























天満組
惣会所


 市中の行政についてはこれだけの役人では直接一般町民に接触して面 倒をみる訳にゆかないから、中間の仕事をする役を必要とし、惣年寄が 生れた。大坂を北組・南組・天満組の三つの組に分ち、これを総称して 三郷といい、三郷には郷ごとに惣年寄があり、惣年寄が執務する惣会所 があった。惣年寄は古くは北組十人、南組六人、天満組五人、計二十人 を算したが、後にはその増減をみ、明治維新当時は十二人に減少した。  惣年寄は市政百般について公私の間に立って事務を処理したが、純然 たる名誉職で給与はなく、その職務は多岐にわたったが、その主なもの は、  一 三郷中に発布される触書、口達の類を町奉行から承け、町年寄を   惣会所に召して伝える。  一 新地が開発されたとき町割をする。  一 堂島新地の地子銀、堀江の地代金その他所々の運上銀を集めてこ   れを上納する。  一 出火の節は火消人足を指揮する。 ことなどであった。  惣年寄の執務する惣会所は南組はいまの東区本町四丁目に、北組は東                  (註) 区平野町四丁目にあり、天満組の惣会所は天満七丁目(いまの滝川町、 河内町一丁目)にあって、南は鳥居筋から北は天満宮表門筋に至る大体 五百坪ばかりを占めていた。惣会所は明治二年五月四区制が行われるま で存続し、その後、滝川小学校がこの地に設けられたが、明治四十四年 十一月小学校の移転後は民有地となった。惣会所には惣年寄の下に惣代・ 若キ者・物書・小使などが勤務していた。惣代は町代から出たものであっ たが、次第に職業化して遂に官選となり勢力を振うようになった。道頓 堀を開さくした安井道頓の兄、安井道卜や忠臣蔵にモデルときれた天野 屋利兵衛は南組の惣年寄を勤めた人であったともいう。  (註)往時天満方面の町名はいまの天満橋筋一丁目を天満一丁目とし   て酉へ、二丁目、三丁目、四丁目と数え、いまの天神橋筋が天満十   丁目であったので、今でも天神橋筋を「十丁目筋」と称する。

 

      歴代の天満組惣年寄

 延宝七年
  (一六七九
  難波雀)
元禄十六年
  (一七〇三
  公私要覧)
元文五年
  (一七四〇
  大坂袖鑑)
文政三年
  (一八二〇
  役人録)
慶応四年
  (一八六八
  役人録)
紀伊国屋与次右衛門
大和屋善左衛門
天王寺屋三郎右衛門
かなや助右衛門
新屋左五右衛門
中村左近右衛門
今井利佐衛門
金屋与三左衛門
新屋庄左衛門
 (北組に入る)
中村左近右衛門
今井喜佐衛門
金屋清右衛門
 (南組に入る)
薩摩屋仁兵衛
中村松太郎
今井利左衛門
さつま屋仁兵衛
 
 
中村左近右衛門
今井与三右衛門
比田仁兵衛
 
 
計         五 四 四 三 三
惣 代       三 四 四 四 四
手代(若キ者)  ― 三 四 四 四
物 書       ― 一 二 二 二



北区は
天満組
に属す
 

今井克復談話


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