Я[大塩の乱 資料館]Я
2011.9.24

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「大塩の乱関係論文集」目次


『北区誌』(抄)

その20

大阪市北区役所 1955

◇禁転載◇

第三章 江戸時代の文化と社会
  一 町人と元禄文化
     井原西鶴の小説
管理人註
































井原西鶴の
生いたち























好色五人女


























日本永代蔵



































西鶴置土産

 江戸時代、堂島に蔵屋敷あり、米市場があって金融の機関が整い、商 業の繁盛は年とともに大となり、「草間伊助筆記」の表現を借れば「大 坂衰微すれば天下の衰微、実以大坂は天府の国也」とか「大坂衰微すれ ば諸国も衰微する道理あり」という有様であった。  「古来よりかくの如き土地がら故、商估専らにして人気もおのづから 其風に移り、利を謀ること他国に超て慧敏なり。故に淳朴質素の風は更 に失ふて、只だ利益に走るの風俗のみ。士といへども土着のものは、自 然此風に浸潤して、廉地の心薄く、質朴の風なし」と「浪花の風」に営 利心がきわめて発達していたことが説かれている。これを他面からみれ ば町人的精神が全大坂を支配していたものである。ことに元禄という時 代は新しい時代であった。中世的な機構が崩壊して、近世的な町人の社 会が新しくたてられた時代で、ここにみづからの新しい時代の文学、す なわち町人文学が生れるに至った。この要望にこたえた代表者が近松 (一六五三−一七二四)・西鶴(一六四二−一六九三)・芭蕉(一六四 四−一六九四)の三人で、なかでも西鶴は大坂に生れ、大坂で死んだ生 粋の大坂町人であった。  井原西鶴については寛永十九年(一六四二)生れの生粋の大坂の町人 であるとしか伝わっていない。小説の西鶴、戯曲の近松と称されている が、はじめ宗因の歩んだ道をたどり、かれ自身の町人階級の立場に立っ て連句を得意とし、町人社会のきまざまの面を余すところなく取りあげ た。連吟、早口を誇り延宝五年(一六七七)に一日、一千六百句の独吟 があり、貞享元年(一六八四)には一日一夜に二万三千五百句をつくる という有様であった。「好色一代男」の主人公が生涯に戯れた男女の数 を四千四百六十七人と作ったことなどにも、町人の盛り上る意欲を反映 しているといわれる。西鶴の好色物としては「好色一代男」「好色五人 女」があり、町人物の小説「日本永代蔵」「世間胸算用」などには当時 の町人社会の活気に満ちた様が忠実に描かれている。  「好色五人女」は貞享三年(一六八六)西鶴四十五才のときの作で、 家庭の女性を主人公とし、当時の女性は厳重な身分制度や家族制度に支 配されたが、ゆたかな上方町人階級の精神が、そういう不合理を心から 承認する筈がなかった。五人の女性はいずれも悲劇的な恋愛の戦士であ るが、巻二「情を入れし樽屋物語」は天満の樽屋おせんの事件を取扱っ ている。おせんは老松町を東へ天満堀川を横ぎるところに架けられた樽 屋橋の西詰、西樽屋町に住んでいた樽屋伊助の恋女房である。おせんは 以前の奉公先の麹屋長左衛門との仲を長左衛門の女房に疑われたので、 勝気なおせんは身に覚えのない恥をかかされた今となっては、長左衛門 を我ものにして恨みを果そうと思っていた。貞享二年(一六八五)正月 のある夜更け、彼女が長左衛門の手をとったところを伊助にみつけられ、 おせんは今が最後と心臓を刺して死ぬが、最後までいとしい夫伊助の名 を呼ぶという小説で「槍屋おせん」として劇にも組まれてきた。  「日本永代蔵」は元禄元年(一六八八)の作で、町人の立身出世談を 集めたもので、その一節に  「難波橋より西見渡しの百景、数千軒の問丸、甍をならべ、白土雪の            ひようもの  曙をうばふ。杉ばへの俵物、山もさながら動きて、人馬に付けおくれ  ば、大道轟き地雷のごとし。上荷茶船かぎりもなく川浪に浮びしは、  秋の柳にことならず、米さしの先をあらそひ、若い者の勢ひ、虎臥す                そろはんあられ  竹の林と見え、大帳雲を翻し、十露盤丸雪をはしらせ、天秤二六時中  の鏡にひびきまさって、其の家の風暖簾吹きかつしぬ。」 と堂島の米市場あたりを望見したらしい情景が描かれている。  「西鶴のリアリズムと近松のロマンチシズムの相違はけっして小説と 演劇との相違だけではなかったのだ……。つまりは、西鶴と近松との作 家としての個性の相違なのだ。そして、そこに町人出と武家出の相違も 見られるし、また、二十年ほどずれている時代の相違もあるといへば、 いへるのである。いってみれば、西鶴の文学のもっている比類なき勁さ は、元禄上昇期の町人を、生涯見つづけて、そしてその全盛が飽和点に 達したと同時に、死んだのだ」(織田作之助「西鶴新論」)  西鶴の遺著「西鶴置土産」の巻頭には   辞世 人間五十年の究りそれさへ       我にはあまりたるに、ましてや      浮世の月見過しにけり末二年       元禄六年八月十日五十二才 とあり、墓は南区上本町四丁目誓願寺にある。近松門左衛門の歿したの は享保九年(一七二四)であるから西鶴に遅れること約三十年であった。

   
 

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