庶民の街、大坂の生んだ文豪近松門左衛門(巣林子と号す、一六五二−
一七二四)は当時の大坂に劇的事件があると、それを豊かな詩藻をもっ
て劇作化した。
曽根崎のお初徳兵衛が情死をとげると、時を移さず書き上げたのが
「曽根崎心中」で、世話物浄瑠璃の嚆矢として、これを上演した竹本座
は空前の大当りで、彼の人気は一世を風靡した。「曽根崎心中」の筋は
内本町の醤油屋平野屋の手代徳兵衛が、北の新地天満屋のお初と深く二
世を契ったが、主人の妻の姪との結婚を強いられ、主人の金を悪友に詐
取され、恥をかかされた徳兵衛が、お初にも身請けの風説があると聞い
て失望のドン底に落ち、遂にお初を連れ出して曽根崎天神の森で心中を
遂げる。このとき徳兵衛は二十五、お初は十九の花盛りであった。心中
のあったのが元禄十六年(一七〇三)四月二十三日、竹本座で上演され
たのが五月十七日という早業であったという。
この浄瑠璃の上の巻に大坂の三十三カ所観音巡りが描かれている。当
時の大坂人の生活で娯楽といえば、芝居、浄瑠璃や月の極め日に市中を
廻ることで毎月十八日の三十三カ所観音巡り、二十一日の大師めぐり、
二十五日と丑の日の天神宮巡拝などといろいろあった。
観音巡りの一節には
おんてら ふり とおる おとど
「一番に天満の太融寺、此の御寺の名も古し、昔の人も気の融の大臣
ぐぜい
の君が塩竃の浦を、都に堀江漕ぐ、汐扱舟のあと絶えず、今も弘誓の櫓
拍子にのりの玉鉾、えいえい、大坂順礼胸に木札の、普陀落や、大江の
岸に打つ波に、しらむ夜明の鶏も二番に長福寺、空にまばゆき久方の光
にうつるわが影のあれあれ、走れば走るこれこれ、又、とまればとまる
ふり めぐ
振のよしあし見る如く、心もきぞや神仏、照す鏡の神明宮、拝み廻りて
りんき
法住寺、人の願ひも我が如く誰か恋の祈りぞと、仇の悋気や法界寺、東
おく け し
は如何に、大鏡寺草の若芽も春過ぎて、後れ咲なる菜種や罌栗の露にや
うるる夏の虫、己が妻恋やさしやすしや、あちへ飛びつれ、こちへ飛び
はね
つれ、あちやこち風ひたひたひた、翅と翅とをあはせの袖の、染めた模
りつとうじ
様を花かとて肩に止れば自ら、紋に揚羽の超泉寺、さて善導寺栗東寺、
天満の札所残りなく……」
と、いまの東寺町から西寺町にかけて、寺々が菜種ばたけに点々とつ
づいていたさまがうかがわれる。お初徳兵衛の二人が心中した「天神の
森」は梅田新道の露天神社のことで、このことあってのち俗に「お初天
神」と呼ばれるようになった。
この一篇の道行は有名で、そのはじめ
しに
「此の世の名残り夜も名残り、死に行く身を譬ふれば、仇しが原の道
の霜、一足づつに消えていく、夢の夢こそあはれなれ。あれ数ふれば暁
の、七つの時が六つ鳴りて、残る五つが今生の鐘の響きの聞きをきめ、
寂滅為楽と響くなり」
と、ここまで読んで来たとき、時の碩学荻生徂徠(一七二八歿、享年
六十三才)は「近松の妙ここにあり」と激賞した。
時に五十一才、これを機会に彼は京都から大坂に居を移し、竹本座の
座附作者として麗筆をふるい、六十二才になるまでの十二年間は心中物
を書いて大成功をおさめた。
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