並木五瓶
五大力恋緘
紀海音
梅田心中
八重霞浪花
霞荻
人形浄瑠璃
吉田文五郎
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近松門左衛門のほかにも北の新地を舞台とし、その遊女を登場人物と
する戯曲をつくりあげたものは多い。並木五瓶(一七四七−一八〇八)
は元文二年(一七三七)七月、与力早田八右衛門が曽根崎新地三丁目、
ごだいりきこいのふうじめ
大和屋与兵衛一家五人を殺した事件を「五大力恋緘」に劇化した。近松
きのかいおん
の竹本座に対し豊竹座に拠って活躍していた紀海音(一六六三−一七四
二)は北の新地万屋のお高と老松町の錺問屋津屋弥市が寒山寺の鐘の音
を聞きつつ男は梅田の墓の小屋の中で自殺する事件を「梅田心中」に書
きあげた。
北の新地油屋の抱え遊女かしくが蔵屋敷留守居某に請出され、八重と
改めて老松町で妾暮しをしていたが、平素はおとなしい女であるのに酔
うと酒乱の癖があって、ある日も兄吉兵衛に酒のことから意見されて喧
嘩となり、誤って兄を殺してしまい、八重は入牢して千日前で獄門となっ
た。寛延二年(一七四九)三月のことで、その処刑に臨んで彼女は油揚
を所望し、その油を髪につけてときつけ、町々を引き廻されたというの
で、女の身だしなみを忘れぬ奥ゆかしさが評判となり「八重霞浪花浜荻」
と劇や浄瑠璃に仕組まれた。刑死の後、その首を生前彼女がよく参詣し
た曽根崎上一丁目法清寺(一名かしく寺)に弔って、主家油屋の手で石
碑が建てられ「本具妙暁信女」と彫られている。
く ぐ つ
文楽座にその伝統を維持している人形浄瑠璃の人形劇は中世の傀儡子
にさかのぼり、浄瑠璃は能狂言が平民化して生れたもので、両者が相結
んで人形浄瑠璃が.でき上ってきたのは江戸時代初期である。近松門左
ヽヽヽ
衛門は戯曲作家として歌舞伎にみきりをつけて、人形浄瑠璃の戯曲に没
頭するようになり、さらに近松は語り手として竹本義太夫、人形遣とし
て吉田三郎兵衛を得て、人形浄瑠璃は今日の世界に誇る「文楽」の基礎
を確立した。
いま芸術院会員である人形遣の第一人者、吉田文五郎(明治二年十月
生)も若いころ与力町に住まっていた。文五郎の至芸がどれ程の努力の
結晶であるかを、彼自身の語るところによろう。
「わては十五の年に、松島の文楽イはいりましたのやが、その時分は、
朝の五時から大序の幕があきます。それで、わてはまだ夜なかの三時
に起きて、提灯もってうちを出ました。雪が降ってる時でも、乗物が
おまへんさかい、与力町から松島まで浜づたいに暗い道を歩いて行き
ました。
ヽヽ
わてらの修業時代は今とちごて「そらもう体に生きずの絶え間がない
くらい、きついもんでした。無暗矢鱈に人の子を傷つけるいうのは、
なんぼ今と時代が違ういうてもあんまりやないか、そないに思われまっ
けど、人形というもんは一芸一代、一生かかっても覚えられるもんや
おまへん。」
いま文楽の悩みは人形遣の徒弟を得られないことであり、名利を離れ
て堪えがたい難行の道を好もうとする若者を求めることは不可能で、吉
田栄三も「わてや文五郎はんみたいな阿呆はもう出まへん」といってい
る。(織田作之助「大阪論」による)
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寒山寺は北区
西寺町から
昭和44年に
箕面市に移転
文楽座は
昭和38年、
朝日座と改称、
国立文楽劇場
に引き継がれ
ている
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