俳譜に基礎を与えた京都の松永貞徳(一五七一−一六五三)の唱えた
貞門派が、次第に固定して生気のないものとなるに及び、新興町人の活
気を反映して、貴族的なものを退けて庶民的なものが喜ばれ、奔放な思
想を托する新風が生じた。すなわち談林派であり、その開祖である西山
とよかず
宗因(西翁、梅翁とも号す)は慶長十年(一六〇五)に生れ、名は豊一、
肥後加藤侯の藩士であったが、主家の没落とともに浪人し、京都の北野
に幽棲し、後に大坂天満、いまの此花町一丁目に居を卜して向栄庵と名
ずけた。連歌の判者として生活をたてたが、やがて俳諧に心をそそぎ、
次第に貞門の影響を脱して一派を開いた。延宝三年(一六七五)江戸に
下って田代松意らと
されば爰に談林の木あり梅の花 梅 翁
世俗眠をさますうぐひす 雪 柴
と詠んで意気を示し、そののち談林(談林とは僧徒の道場を指す仏語)
と呼ばれた。軽妙清新な作風で、彼の句には
朝夕の人もめつらし今朝の春
夏の夜や東はなしに月は西
しら露や無分別なる置きどころ
などあり、延宝二年(一六七四)古稀の歳には
書初や七十歳筆摂州住
の句がある。天和二年(一六八二)三月二十八日、七十八才で江戸で客
死し、墓は西寺町の西福寺にあり、いま天満宮境内に左の句碑が残され
ている。
浪華津にさく夜の雨や花の春
談林派初祖 梅翁西山宗因
井原西鶴も宗因の門であり、西鶴によつて俳諧ははじめて町人のもの
となった。こうして談林の俳諧は延宝(一六七三−一六八〇)、天和
(一六八一−一六八三)、貞享(一六八四−一六八七〉の盛時を経て、
やがて松尾芭蕉(一六九四歿)の蕉風を迎えることになった。しかしこ
の蕉風も談林の俳諧運動を経過することなしには生れることができない
ものであった。
俳人の系統〈沼沢竜雄「俳文学選」による)
談林風 ┌井原西鶴
┌西山宗因┤
┌松江重頼┤伊丹風 └内藤霜沾
│ └上島鬼貫
│
貞門、古風│ 江戸座
松永貞徳┤ ┌宝井其角─早野巴人─谷口蕪村
│ 蕉風 │雪門
│ ┌松尾芭蕉┼服部嵐雪
└北村季吟┤ │美濃風
│ └各務支考
│葛飾風
└山口素堂・・・・・・・・小林一茶
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