Я[大塩の乱 資料館]Я
2011.10.5

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「大塩の乱関係論文集」目次


『北区誌』(抄)

その30

大阪市北区役所 1955

◇禁転載◇

第三章 江戸時代の文化と社会
  三 幕末期と幕府の崩壊
     災害飢饉の頻発(2)
管理人註






天明の飢饉




















木津勘助




























打毀し

 米不足の声があがると今でも人心が不安になるが、今日のような輸送 機関もなく、社会施策も行きとどかなかった当時、全国的に凶作の年も 多かったので、少しの米不足でもすぐに飢饉の声となった。天明三年 (一七八三)から四年にわたる米価の騰貴を、大商人の買占めによるも のとした細民が、堂島新地一丁目松安庄左衛門や玉水町加島屋久右衛門 の居宅をうちつぶすべく、騒動を起すに至ったので惣会所では町年寄を 集めて篤志家の協力によって、困窮の者に施したり、行倒れ人を小屋に 収容したこともあった。天明七年五月十一日夜は、天満伊勢町茶屋吉右 衛門の居宅を襲って家作諸道具を破壊したのを発端として、翌十二日に は市内各所に押買い・狼籍が起り、銭百文を出して二升、三升の米を押 買し、もし応じないときは米穀を引出し、あるいは店舗を破壊するとい う有様であった。  木津勘助(万治三年十一月歿、年七十五才)の事蹟は必ずしも明らか でないが、当時不作で米の値は上り、貧民は粥もすすれぬという騒ぎが あり、貧民たちはまず堂島の米市場を襲い、ついで中之島の蔵屋敷にせ まり、叫喚が高まった。このとき福岡藩筑前屋敷の廂の上に両脚を踏む ばって上ったのが木津勘助であった。両手を左右にひろげ、腹の底から 絞り出した大音声で  「勘助餅の勘助ぢゃァ、あとは安心せい、この首を獄門に懸けて引受  けたぞ。」 と叫んだので、これに勢をえた群衆は白昼に市中至るところの米倉を襲っ たが、この罪科を負うて勘助は二カ月の間、獄にあって、三カ月目に死 罪を行うべきところ、生涯の流罪として流されたのが木津の勘助島であっ た。          うちこわ  こうした暴動は「打毀し」と称され単に大坂にとどまらず江戸でも行 われた。幕府も米価騰貴の対策として、囲米の制度を設けて凶作に応じ、 洒の醸造を制限して米の消費を節し、施米その他の方法によって窮民の 救助をはかろうとしたが、これらは一時的なものに過ぎなかった。松平 定信が老中となるに至って備荒貯蓄の必要を感じ、寛政元年(一七八九) 三月、天満川崎の普請方勘定場空地約六百四十坪余に囲米貯蔵用の土蔵 を新築した(川崎御蔵と呼ばれた)。この建築用材はすペて材木問屋仲 間の寄附にもとめたが、民間においても自治的に町内において囲米をす る者ができてきた。また当時の淫蕩の風と生活苦は早くから棄児をみる に至ったが、奉行所はこれを禁止したのみでなく、寛延及び天明年間に は捨子養育方について注意を発したこともあった。

   
 

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