天保八年(一八三七)の大塩の乱は不作による米飢饉が動機となった
もので、江戸時代の大坂における大事件であつた。大塩平八郎中斎は寛
政五年(一七九三)一月二十二日、東町奉行に属する天満組与力大塩平
八郎敬高の家に生れ、幼名は文之助、名は後素、字は子起、中斎と号し、
天満橋筋長柄町を束へ入り四軒家敷の角から二軒目の南側(いまの滝川
小学校の東、造幣局官舎敷地内)に住まっていた。平八郎中斎は七才の
とき父敬高を失い、早くから孔孟の教を奉じて、王陽明をきわめて頼山
陽とも交友あつく、また武術にも秀れた人で、常に民衆の不平をなから
しめることを望み、与力としては奉行高井山城守実徳に信任された。三
十五才にして吟味役となり、邪宗門事件、破戒僧事件などに破邪顕正の
実を行って治績をあげ、天保元年三十八才のとき、高井山城守が職を辞
するに際し、家職を養子格之助に譲った。住居を洗心洞と称して私塾を
設け、子弟の教育にあたって名著「洗心洞剳記」、「孝経彙註」などを
刻し、静かに世相に思いをめぐらしていた。
天保初年の飢饉には東町奉行矢部駿河守定謙の措置よろしきを得て事
なきを得たが、六、七年の飢饉は一層甚しいにかかわらず、時の東町奉
行跡部山城守良弼は頑冥で何らの措置を講ぜず、民衆の声に耳をおおう
て幕命と称して多量の米を江戸に廻送したので、奉行所に対する不満止
み難く、平八郎はその旨建言したが、奉行は彼の建言を強訴と認めた。
また当時の町人富豪も奉行の権勢に押されて救済を恐れるに至ったので、
平八郎は日頃愛惜おかない蔵書五万巻を売払って、これによって得た六
百二十五両を窮民一人当り一朱ずつを一万人に与えることとした。出入
の書肆河内屋喜兵衛を招いて施与を周旋させることとし、次のような口
上書によって、八年二月六・七・八日の三日間、安堂寺町五丁目の本屋
会所で行われ、施与を受けた人たちは遠く河内方面にも及んだ。
口 上
近年打続米価高値に付、困窮之人多く有之由に而、当時御随居大塩
平八郎先生御一分を以、御所持の書籍不残御売払被成、其代金を以
て、困窮之家一軒前に付、金一朱づつ、無急度、都合家一万軒、有
之候間、此書附御持参に而、左の名前之所へ早々御申請に御越可被
成候
但、酉二月六日安堂寺町御堂筋南入側本会所へ七つ時御越可被成候
総金六百二十五両
書林 河内屋喜兵衛
同 新次郎
同 記兵衛
同 茂兵衛
かくて天保八年(一八三七)二月十九日を挙兵の期と定めたが同志の
東組同心平山助次郎が十七日の晩に山城守の邸に出向いて事前に洩らす
というような経緯もあったが、跡部山城守の優柔不断に乗じて十九日の
未明、結束して起ち、まず徳川家の宗廟であった東照宮(洗心洞すぐ裏)
を砲撃炎上させ堂々市中を示威行進した。この狼煙をみ、かねての檄文
によって駈けつけるもの幾百人、これらの一団は天満橋筋を北に与力町
方面に向い、平八郎らは与力町を西へ、平生私曲があると思った与力の
家々に大筒を打ち込ませ、夫婦町の四辻から綿屋町を南に、天神橋を渡
ろうとしたが、橋はすでに奉行の命で橋板をはずしてあったので、西し
て難波橋を渡った。このときすでに猛火は北風にあふられて火炎天に冲
し、砲声と相応じて凄壮をきわめた。さきに救済の議を拒絶した鴻池善
右衛門、天王寺屋五兵衛、三井八郎衛門らの富豪の邸をおそって、ある
いはこれを焼き、遂に平野橋附近、堺筋方面で奉行側の軍勢と衝突し、
同志の多くは、あるいは戦死し、あるいは捕えられた。平八郎父子は首
うつぽ
尾よく姿をくらますことができ、最後に靭の紀伊国橋を南へ渡って東へ
入った南側にあった美吉屋五郎兵衛(平八郎と義兄弟で更紗業を営むで
いた)邸に身を隠したので、町奉行は即日町々に廻状を出した。
以 廻状 、致 啓上 候、今十九日、大坂市中、及 乱妨 候奸賊、
元大坂町奉行組与力大塩平八郎、同苗格之助、瀬田済之助、同組
同心渡辺良左衛門、近藤梶五郎、庄司儀左衛門、其外ノ者迯去候
ニ付人相書、左ノ通リ
大 塩 平 八 郎
一、年齢 四十五、六才計り 一、顔 長ク色白キ方
一、眼 張り強キ方 一、眉毛 細ク濃キ方
一、額 開キ月代薄キ万 一、鼻 常体
一、背 格好常体 一、耳 常体
其外着用ハ其節、鍬形付キ兜着シ、並ニ小具足、其外着不分明
当時、急を要したこととて廻状はつぎつぎと筆写して取次がれたため、
ほかの廻状には「眉毛細ク薄キ方」と書かれたりした。
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