Я[大塩の乱 資料館]Я
2011.10.8

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「大塩の乱関係論文集」目次


『北区誌』(抄)

その32

大阪市北区役所 1955

◇禁転載◇

第三章 江戸時代の文化と社会
  三 幕末期と幕府の崩壊
     天保の飢饉と大塩の乱(2)
管理人註






平八郎父子
の最後


























































大塩の乱後

 平八郎父子のかくれていた美吉屋の奉公人が平野郷の自宅へ帰って 「この頃不思議に米をたくさん使う」と口を滑らしたことから、幕吏の 知るところとなって、平八郎は捕手と顔を合わせたあと間もなく、父子 ともに自ら爆死をとげた。時に天保八年(一八三七)三月二十七日、中 斎は四十五才、養子格之助は二十五才で、父子の墓はいま束寺町の成正 寺にある。  この騒動で大坂は船場方面にも延焼し、天満組四十二カ町・北組五十 九カ町・南組十一カ町を焼き、一万三千戸を烏有に帰し、鎮火したのは 翌二十日の宵五つ半であった。大塩焼  暴動の翌九年八月二十一日の裁決によって平八郎以下二十人は礫に処 せられ、十一人は獄門に処せられたが、この重罪人三十一人のうち、刑 を執行されるとき生存していたものは五人だけで、平八郎ら六人は自殺、 三人は他殺や病死、十七人は牢死である。当時の罪人は一年以内には必 ず死ぬる牢に入れられ、死んでから刑の宣告をうけ塩詰にした死骸を礫 柱などにかけられたものであった。(森鴎外「大塩平八郎」による)  学問あり、思慮ありとされた平八郎としては誠に軽卒な行動とも評さ              のりのすけ れ、すでに門弟中にも宇津木矩之允の如きは死を決して諌めた。しかし 事ここに至ったのは敢為過激な彼の性格と平八郎に対する崇敬の念にも とずくものであった。彼の塾、洗心洞の入学盟誓に  「聖賢の道を学び以て人とならんと欲せば師弟の名正ふせざるべから  ず、師弟の名正しからざれば則ち不善醜行ありとも誰れか敢て之を禁  ぜん。故に師弟の名誠に正しければ則ち道、その間に行はる。道行は  れて而して善人君子出づ、然らば則ち名は学問の基なり、正ふせざる  べけんや、某孤陋寡聞といへども一日の長を以て其責に任ず、則ち師                  やぶ               おおむ  の名を辞するを得ず、而かも其名の壊るゝと壊れざるとは率ね下文条  件の立つと立たざるとにあり、故に盟を入学の時に結び以て予め其の  不善に流るゝの幣を防ぐ」 と、盟の数件を示してあった。  平八郎父子の自殺で乱は片付いたが、市中はますます米価が騰貴して 銭百文で米二合六勺、貧乏人は困窮の極に達して不平の声に満ちた。幕 府は八年三月天満橋南詰東、同北詰、天王寺御蔵跡の三カ所に御救小屋 をたて、窮民に対し毎戸に白米二升八合を分配し、義捐金を施与した。 それでも六月、暑気に向って悪疫が流行し、飢餓に倒れない者は病に仆 れるという有様で、七月には千日、梅田の墓所では深い穴を掘って行倒 れ人を投げ入れたとさえいわれる。  また、芝居や遊所は火の消えたようで、俳優は小商いをして糊口を凌 ぐ始末であった。このとき七月、二代目仲蔵は市中の人気を浮立たせる 景気挽回の策として梅玉(三代目歌右衛門)と相談して俳優の盆踊りを することとなった。毎日趣向を変えて屋台を練り出したので毎晩にぎわ い、そのうえ七月十二日から堂島の米相場も少し下るし、盆踊りの衣裳 が豊年の雀踊りだからとまた人気が出て、二十日には銭百文で白米六、 七合になった。大塩の乱後の復興策として正道のものではなく、一優の 思いつきに過ぎなかったが沈滞の極に達した折柄、時を得たものだった。

   
 

大塩焼図
石崎東国『大塩平八郎伝』 その35
「御触」(乱発生後)その1


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