Я[大塩の乱 資料館]Я
2011.10.9

玄関へ

「大塩の乱関係論文集」目次


『北区誌』(抄)

その33

大阪市北区役所 1955

◇禁転載◇

第三章 江戸時代の文化と社会
  三 幕末期と幕府の崩壊
     王政復古
管理人註














梅田雲浜






















王政復古


















大坂遷都論
























新政府の御
用金

 封建社会の基盤ともいうべき自然経済は貨幣経済・商品経済の発展に よって次第にくずれ、旧藩体制下の社会は多くの矛盾をふくみ、各方面 に危機の兆候が現われてきた。  嘉永六年(一八五三)六月ペリーの率いる軍艦が浦賀に、その翌安改 元年にはロシヤの軍艦が長崎に来航したが、さらに突如として大坂湾に ロシヤの軍艦が投錨したときの大坂の騒ぎは大変なもので、かの勤王熱 血の儒者梅田雲浜が   妻臥病床児泣飢 挺身直欲戎夷   今朝死別与生別  唯有皇天后土后 の絶句を残して難に赴かんとしたのはこの時だった。  幕府は外交の地を伊豆の下田と定めたので大坂方面はしばらく小康を 保った。安治川口の天保山に砲台が据付けられたのはこのとき摂海の要 衝を守ろうとしたものであり、諸藩の役人・浪人・志士の来往ははげし かった。  薩摩、長州両藩の提携は幕府の倒壊、王政復古に拍車をかけ、慶応三 年(一八六七)正月明治天皇が即位されるや十二月王政復古の大号令が 発せられた。大坂城にあった将軍慶喜は征討の錦旗出ずるを聞いて、明 治元年正月六日夜ひそかに城を出て江戸に帰り恭順の意を表した。すで に城中に徳川勢は一兵もなかったが、官軍の追撃によって大坂城は本丸 をはじめすべて戦火のため烏有に帰した。征討大将軍嘉彰親王は大坂に 入り、津村別院を本営とし、薩摩藩は難波別院に、長州藩は大塩の乱に 焼かれた天満川崎の東照宮の建国寺に陣して、両藩で無警察状態の市中 の取締にあたった。  これよりさき維新の元勲大久保利通は王政復古・庶政一新のときにあ たって大坂遷都論を唱え、  「遷都之地ハ浪華ニ如クヘカラス、暫ク行在ヲ被定、治乱ノ体ヲ一途  二居へ大ニ為スコトアルヘシ外国交際ノ道、富国強兵ノ術、攻守ノ大  権ヲ取リ、海陸軍ヲ起ス等ノ事ニ於テ地形適当ナルヘシ」 と主張したが、京都と公卿たちの反対のため実現に至らなかった。この 間にあって岩倉具視は三条実美とはかって天皇の親征によって天下の耳 目を一新し、紀綱を恢復し得るとする議が成立して、明治元年三月の行 幸となったといわれ、明治天皇は三月二十三日大坂に上陸され、天保山 沖に海軍を、大坂城内では陸兵の調練を御覧になった。  明治新政府は明治元年一月京都二条城へ京坂の富豪百数十名を召出し て、新政府会計基金三百万両の調達を申付けた。また二月に御親征御用 金として大坂で五万両の調達をしようとしたとき、大坂の町人富豪は旧 幕府からたびたび御用金に悩まされ、また諸侯からも相当の被害を受け ているので、鴻池家をはじめ十四人の豪商は承諾しょうとせず、ようや く政府は「心人よろしき者へは格別之御賞美も可之候」という達を 出して目的が達せられた。  この御用金を上納した十五名の富豪町人の割当額は次のようであった。  五千五百両宛 鴻池善右衛門・広岡久右衛門・広岡作兵衛  四千五百両宛 殿村平右衛門  三千五百両宛 和田久左衛門・高木五兵衛・平瀬亀之助・石崎喜兵衛  二千七百両宛 中原庄兵衛  二千五百両宛 殿村伊太郎・長田作五郎  二千両宛   井上市兵衛・樋口重郎兵衛  千八百両宛  今堀長吉郎  千五百両宛  浅田市之助  かくて貨幣経済の発達とともに、武家の権力は町人の金権に屈服する に至り、官軍の江戸征伐、鳥羽伏見の戦、あるいは明治新政府の公債、 紙幣の発行など、すべてこれらの維新回天の大事業は大商人の富によっ てなされたものであり、実際運動の表面に立ち、維新ののち資本主義社 会の中堅となったのは下級の武士階級であった。

屋号等は次の通り

平瀬 千草屋
広岡 加嶋屋
殿村 米屋
和田 辰巳屋
平瀬 千草屋
石崎 米屋
中原 (鴻庄)
高木 平野屋
長田 加嶋屋(玉水町)
井上 鴻池家の別家
鴻池 山中善右エ門
樋口 加嶋屋
今堀 米屋
浅田 島屋













 

『北区誌』(抄) 目次/その32/その34

「大塩の乱関係論文集」目次

玄関へ