Я[大塩の乱 資料館]Я
2011.10.15

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「大塩の乱関係論文集」目次


『北区誌』(抄)

その39

大阪市北区役所 1955

◇禁転載◇

第四章 明治時代の発展
  二 近代的商工業の発達
     文明開化の先覚者(1)
管理人註














福沢諭吉































慶応義塾

 幕末、維新の指導者たちは「富国強兵」の旗印をかかげて国民に呼び かけ、彼らは封建制度の打倒、近代国家の建設をその歴史的使命として 荷なっていた。その意味で近代資本主義経済の先駆者は思想的には福沢 諭吉、政治家としては大久保利通・松方正義、実業家としては五代友厚・ 渋沢栄一を挙げることができるが、これらの先覚者と大阪との縁故は深 い。  自由民権の祖、福沢諭吉は天保五年(一八三四)十二月十二日、堂島 玉江橋北詰の旧中津藩の蔵屋敷に在勤していた父百助の子として二人の 男子と三人の女子の末子として生れた。百助は下級士族で諭吉の三才の とき死去し、彼の一家は郷里へ帰った。諭吉は二十一才のとき長崎に蘭 学を学び、苦学一年にして安政二年(一八五五)三月、中津薄蔵屋敷に いる兄を訪ねて大阪へ来た。その道中は二分二朱位しか持合せがなく播 州明石では船頭に勘定を責められ、商人に助けられたりして大阪まで十 五里の道を歩き、玉江橋北詰の屋敷へたどりついたのは夜の十時過ぎで あった。諭吉が勉学のため江戸に行こうとしているのを聞いて兄三之助 は、北浜の緒方洪庵の適塾に入ることを勧めた。そののち兄は蔵屋敷勤 めの年期が済んだので、諭吉の貧困に同情した洪庵は彼を食客生として 塾におくことにした。塾では「夜になると天神橋か天満橋の橋詰に魚市 が立つ。マァ云はば魚の残物のようなもので値が安い。夫れを買って来 て手洗盥で洗って、机の毀れたのか何かを俎にして」(福翁白伝)料理 して食うというような生活だった。諭吉の蘭学が藩主に聞え、安政五年 二十五才のときに江戸の中津藩邸に呼び出された。築地の屋敷の長屋で 藩の子弟に蘭書を教えたのが、今日の慶応大学――慶応義塾の発端であっ た。  諭吉はさらに英学の勉強をし万延元年(一八六〇)米国に渡り、翌文 久元年(一八六一)に遣欧使節の随行を命ぜられ、開国主義を、一貫し てわが国民に西洋万般の事情を教え「学問のすすめ」「文明論之概略」 などの著作によって啓蒙をはかり、明治三十四年六十八才をもって逝去 した。  玉江橋北詰大阪大学山口病館前に、高さ五尺余、ブロンズ製砲弾型の 誕生地を示す碑があったが、昭和十八年六月金属回収によって撤去され たままであった。翁の生誕百二十年を迎えて二十九年十一月、慶応義塾 出身者らによって、平和のシンボル「鳩」を模した御影石の碑が再建さ れた。「福沢諭吉誕生地」なる題字は小泉信三の筆である。
















天保5年12月
12日は、西暦
では1935年1月
10日となる

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