大久保利通
五代友厚
製藍所朝陽
館
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大久保利通は鹿児島の出身で、大阪遷都論を唱えた。その実現をみる
に至らなかったが、明治天皇は御即位間もなぐ大阪へ行幸されることと
なり、元年三月二十三日に八軒家に上陸され、津村別院を行在所として
陸海軍の御親閲、高齢者への仁徳の御沙汰などあって、四月七日京都御
所へ遷幸された。
五代友厚は薩摩の儒者五代直左衛門秀堯の二男として天保六年(一八
三五)十二月二十六日生れ、天資俊敏、果断に富み、二十三才のとき世
界の情勢をみようと長崎に留学し、上海に渡航したり慶応三年には森有
礼らと英国へ渡航した。滞欧中はわが国の富国強兵策について研究し、
明治元年には参与職外国事務掛となり、同年二月大阪在勤を命ぜられ、
七月には大阪を開港場たらしめ、大阪港をして本邦第一の良港とすべく
努力した。翌年五月早くも「一般商工業を奨励し民業の振興を図り、以
て国家国民の富強に努めたい」と堅く決意して官を辞し、現在の岸和田
紡績の基礎をきずき、多数の鉱山を開発した。
【写真 五代友厚の像 略】
ついで友厚はわが国における染色藍精製の技術の幼稚であることを改
良しようと、九年堂島に製藍所朝陽館を創立した。この計画は大きく藍
葉の買入地は全国にわたり、内地はもちろん朝鮮や支部に支店・売捌所
を設け、進んで製品を欧米各国にまで輸出しようとした。朝陽館は近代
的工場の代表的なものとして十年二月十六日には明治天皇が有栖川宮熾
仁親王・木戸孝允・伊藤博文らを従えて行幸され工場をつぶさに巡覧さ
れた。いま堂島浜通の商工会議所の東横裏手に「製藍所趾」の記念碑が
残されている。また友厚は鴻池善右衛門らとともに堂島米商会所を設け
て、後年の米穀取引所の前身たらしめ、十一年六月には鴻池善右衛門・
三井元之助・住友吉左衛門らとともに株式取引所を北浜に設け、同年九
月には大阪商工会議所の前身である大阪商法会議所を設立した。また十
三年には大阪商科大学の前身たる大阪商業講習所を設立して多数の人材
を養成し、さらに十四年には中之島に大阪製銅会社を創立し、十七年に
は阪堺鉄道会社を設立した。しかし不幸にして十八年九月二十五日、将
に円熟の域に達せんとする五十一才にして惜しくも病歿した。彼の生涯
は正に実業報国の一念あるのみ、彼の大阪における十六カ年が大阪財界
――ひいては日本経済の今日あるを得しめたというも過言でなく、臨終
に当って枕頭にあった松方正義・西郷従道らに対し一言の私事も委ねず、
ただ国家の前途と商工業の将来のみを憂えたという。
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岸和田紡績は
現ユニチカ
大阪商工会議
所は1971年、
現在地に移転
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