郷に惣会所・惣年寄があるのに応じて町には町会所・町年寄があり、
町会所には町代が起居していた。町年寄は選挙によって選出された名誉
職で、その職務は惣年寄に準ずるもので多岐にわたったが、町年寄のも
と町給与を受ける町代が事務にあたり、町代のもとに下役・夜番・木戸
番があった。町会所には町内式目帳・水帳・宗旨人別帳などが保管され
ていた。町内式目帳は町内の申合規定で、町人どもが支出する諸費用の
割当方法や祝儀銀高を定め、町年寄が町政を掌る規範であった。水帳は
土地あるいは家屋の台帳に相当した。
当時町人というのは家屋敷を持った者をいい、家屋敷を持たない借屋
人は選挙権・被選挙権をもたず、公式の場合、自分の肩書に「何町何某
借屋何某」と書かねばならず、すべてに対して遠慮しなければならなかっ
たので、借屋人は家業に精励して金を蓄え、はやく自分の家屋敷を求め
て町人になろうと努力した。家屋敷の買入にあたって買主は家屋敷の代
金の何分の一かを歩一銀または帳切銀といってその町に納めねばならな
かった。借屋をするときいわゆる家請人を必要としたが、親戚・知人の
ない借屋人や引取人のない老人を一時収容するため享保十七年(一七三
二)天満助成地蔵寺屋敷(いまの木幡町)に間口四間、奥行十八間半の
引取小屋が設けられたこともあった。
なお江戸時代の大阪三郷の町数はつぎの通りであった。
南 組 北 組 天満組 三郷計
慶安四年(一六五一) 一六〇 一九三 六〇 伏見組 五七町 四八九
元禄八年(一六九五) 二四一 二三九 七一 堂島新地 二〇町 五七一
同十三年(一七〇〇) 二四一 二三六 七一 堂島新地 二〇町 六〇一
堀江新地 三三町
安永末年(一七八〇) 二六一 二五〇 一〇九 六二〇
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