Я[大塩の乱 資料館]Я
2011.10.17

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「大塩の乱関係論文集」目次


『北区誌』(抄)

その41

大阪市北区役所 1955

◇禁転載◇

第四章 明治時代の発展
  二 近代的商工業の発達
     明治初期の商工業
管理人註

家内制工業















工場制工業

















蓬莱社


























中之島製紙






商法会議所
















商工会議所

















磯野小右衛
門













藤田伝三郎

 明治維新はこれを経済上からみれば、わが国において産業革命が開始 した時期であった。幕末期には、問屋制家内工業や工場制手工業の発展 は見るべきものがあったとしても、近代的機械制工業と称せるほどのも のはなかった。江戸時代の大坂三郷における工業としては清酒・蒲鉾・ 菓子・食用油などの食料品工業か、食料品以外では蝋・諸金物・硝子生 地などの類であった。  明治新政府は「富国強兵」「殖産興業」の旗印をもって近代産業の移 植・育成につとめ、軍備の充実を急務とした。機械制生産は軍事工業部 門の官営にはじまったといってもよく、大阪における官営工場には明治 三年設置にかかる大阪砲兵工廠と川崎の造幣寮とをあげることができる。 民営による新興工業の代表的なものとして明治天皇の行幸をみたのは堂 島浜通の製藍所と中之島の紙砂糖製造所であった。  明治三年十月伊藤博文が財政事情調査のため米国へ出張するに際し、 十人両替商平野屋五兵衛の分家平野屋百武安兵衛が随行し、偶々製紙事 業の有望なのを知って帰国し洋法楮製商社をはじめたが、資金難から後 藤象二郎・鴻池善右衛門らをもって成る蓬莱社に機械を譲渡した。蓬莱 社は六年三月、製紙事業とともに製糖事業をも経営し、これにあたった 大阪の商人真島襄一郎は水陸の交通に便で、用水の豊富な中之島玉江町 二丁目の旧熊本藩屋敷跡官有地を工場敷地として払下を受けた。その時 の払下地価は坪当りわずかに六銭二厘五毛であった。かくて同社がわが 国ではじめて抄紙機械を構えて製紙に着手したのは八年二月で、九年四 月には大阪紙砂糖製造会社と称し真島襄一郎が社長となり、十年二月十 六日には明治天皇が当製造所へ行幸になり工場を巡覧された。十五年八 月には住友にその工場を譲り大阪製紙場と称したが、そのころ洋紙に対 する需要が増加し、マッチ箱の藍紙は実にこの時にはじまり一手販売す るに至った。しかし、京都・神戸などにも製紙場が設けられ次第に生産 過多の傾向に陥り、一方砂糖の方は製紙以上には振わなかった。十六年 十二月、事業は下郷伝平に譲渡されて、大阪製紙会社と改まり、三十九 年十月には中之島製紙株式会社として陣容を一新したが、他社の競争に 打克つべくもなく、大正十五年三月樺太工業株式会社中之島分工場となっ た。  五代友厚が十一年九月、中野悟二・藤田伝三郎・広瀬宰平らと謀り、 四区長らを加えて商法会議所を設立したのは、そのころ古い商慣習にし がみついていた大阪商人が、新しい経済体制に昏迷におちいっていたの で、破壊された商業組織を再建し、信用取引を挽回しようとしたもので ある。商法会議所は二十三年、商業会議所条例の制定にともなって大阪 商業会議所と改まり、法的基礎をもってからは法規改廃に関する意見、 経済調査、貿易振興策など万般の問題について活躍し、あるいは大阪港 の完成を急がせ、市電工事の促進を要望したり大いに大阪経済の促進に 寄与した。以来昭和三年の商工会議所法の制定によって現在に至ってい るが、この時期以後の約十年間が最盛期であったといわれている。また 商工会議所前にあった五代友厚の銅像は戦時中に供出されたが、昭和二 十八年十月商工会議所七十五周年記念式典に際して再建された。  実に本市今日の発展の礎はこの頃にあり、五代友厚・広瀬宰平・土居 通夫ら多くの功績者の力によるものであるが、ここには当区に縁故の深 い二・三の人をあげよう。  北大組の大年寄であった磯野小右衛門は文政八年(一八二五)十月長 門国萩に生れ、明治二年京都府御用達となり、四年四月に北大組の大年 寄となった。九年十一月堂島米商会所を設立してその頭取に就任し、十 二年五代友厚らと大阪商法会議所の創設に尽力し、十六年大阪株式取引 所頭取に当選し、二十四年七月には改組後の大阪商業会議所の初代会頭 に当選した。のち再び堂島米穀取引所の理事長となるなど本市の実業界 の発展に力を尽くしたが、三十六年六月、享年七十九才にして逝去した。  藤田伝三郎は天保十二年(一八四一)五月同じく長州萩に生れ、生来 敏にして奇才に富み、高杉晋作の門にいたこともあり、明治六年大阪に 藤田組をおこし、堂島米商会所・大阪紡績会社・宇治川電気株式会社・ 大阪商法会議所などの発起創立にあたった。藤田組の事業としては秋田 県小坂鉱山の開発をはじめ、広汎にわたり当時の大阪における屈指の豪 商であった。藤田組の事務所は堂島浜通二丁目(堀割の青柳橋の東詰) にあり、当時の北区(いまの都島区〉網島町に豪壮な邸宅を構え網島御                       ・・ 殿とも称され、彼は二人押しの人力車に乗ってさっ爽と堂島浜通の事務 所に通勤していた。四十四年八月男爵を授けられ、翌四十五年三月七十 二才にして逝去した。























































下郷伝平(初代)
しもごうでんぺい
1844−1898
明治時代の実業家。
近江製糸の創立者。
 

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