Я[大塩の乱 資料館]Я
2011.10.19

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「大塩の乱関係論文集」目次


『北区誌』(抄)

その42

大阪市北区役所 1955

◇禁転載◇

第四章 明治時代の発展
  二 近代的商工業の発達
     造幣寮の設置
管理人註




















造幣寮の設立
























開業式











近代文化へ
の貢献












































泉布観

 わが国にはじめて金属貨幣が用いられたのは今から千五百年以上も昔 のことであるが、最初に統一のある貨幣制度を定めたのは徳川家康であっ た。元禄時代以後、幕府は財政困難にあうたびに貨幣の品位と量目を引 き下げたので幕末に至って幣制は極度に乱れるようになった。その上、 鎖国の夢破れて安政年間に諸外国と通商条約が締結され、日本貨幣と外 国貨幣との交換が行われるようになってからは、わが国の金貨が盛んに 海外へ流出するようになったが、何ら根本的改革が行われないうちに明 治維新となった。  【建設当時の造幣寮の図 略】  新政府は近代的統一国家を建設するためには、まず幣制を確立して経 済界を建てなおす必要のあることを痛感し、造幣寮の設立地としては当 時未だ東京を以て首都とするよりは、むしろ大阪こそ新しい政府の所在 地であるべしという形勢にあったため大阪が選ばれることとなった。造 幣寮を建築する敷地として難波、中之島なども検分されたが、水利の便 ある川崎の旧幕府御破損奉行所材木置場跡をあてることに決し元年十一 月中旬起工した。(十年一月造幣局と改称さる)二年七月大蔵省が置か れると同時に造幣寮を設け、当時英国が一八六四年香港に設立した造幣 局が閉鎖の状態にあったので同局の機械を購入することにした。当時未 だ煉瓦工業が興っていないので、泉州堺東湊に新に炉を築いて煉瓦を製 造するなど困苦を重ね、元香港の造幣局長であったメージョル・キンド ルが機械の装置を担当し三年十一月竣工、翌四年二月十五日を卜して右 三条実美・参議大隈重信はじめ各国公使ら列席のもとに開業式が行われ た。河岸堤上は紅提灯をもって飾り、花火を間断なく打上げて美観を添 え、翌十六日から三日間は一般の縦覧に供した。開業式当日、多数の賓 客に西洋料理の宴席を設備するがため遠く横浜・神戸から料理人を招い たという。  造幣寮はわが国の近代的工業と文化の発展のためにも責献することが 極めて大きかった。銅の溶解のために反射炉を築造し、金銀を精製する ために多量の硫酸を要するので、これを自給するため英人技師を雇入れ て、硫酸製造に着手し、明治十八年ごろまで生産していた。副産物とし て生産した硫酸ソーダはそのころ台頭してきた製紙やガラスなどの化学 工業を助け、また当時大阪にはまだ瓦斯工業がなかったので、自らガス 製造所を設けて与力町の街路や外国人官舎の照明にも用いたので、市民 はその珍しさと美しさに嘆賞し、家族連れで川崎村さして見物に来た。 寮内で必要とされた器具や機械部品は自製し局外の註文にも応じて作製 し、また川口から諸貨物を運搬するため、川崎から堂島川沿いに船津橋 附近まで軌条を敷設して馬車を往復せしめた。大阪に最初の電信柱が建 てられたのは明治三年八月で、西区川口町居留地に伝信局が新設された が、その架線の一本は造幣寮に通ずるものであった。そのほかインキを 製造して諸官衙・学校に頒布してインキ使用の端をひらき、事務の方面 でも複式簿記を採用して正確を期し、断髪・廃刀、洋服の着用、従業員 の教育などにも率先した。  【写真 明治初年の馬車鉄道      (造幣寮と川口波止場間を運転) 略】  明治初年の造幣寮はけだし大阪の一大名所として錦絵の好い題材とし て選ばれたものであった。五年六月五日には明治天皇の臨幸あり、伏見 から御乗船、四日午後四時西郷隆盛の捧げる錦旗をたてて上陸、五日首 長キンドルの先導で寮内を巡覧された。造幣寮の応接所が行在所に充て られ、陛下はそこから遠近の風光を賞され泉布観の号を賜わった。この 館号については随行者の一人日下部少内史が心斎橋の三木書店へ行き、 いろいろ参考書をひもどいて「宝貨行如泉布」の句を参考に言上したの にもとずいているという。泉布観はその後、十年二月鉄道開業式に行幸 になったとき、また二十年二月には昭憲皇太后が、二十四年十一月には 英照皇太后が行啓のみぎり行在所にあてられた。

   
 

中島陽二「幻の馬車鉄道の謎


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