Я[大塩の乱 資料館]Я
2011.10.20

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「大塩の乱関係論文集」目次


『北区誌』(抄)

その43

大阪市北区役所 1955

◇禁転載◇

第四章 明治時代の発展
  二 近代的商工業の発達
     堂島米穀取引所(1)
管理人註

堂島米市場


































堂島米商会
所








































旗ふり通信












堂島の勢威

 明治時代に入って新政府は堂島米市場をもって米価騰貴の一原因とな し、他方に市場をもって賭博的の弊あるものとして、二年二月令を下し て正米の取引を除き、空米・石建・帳合とも禁止した。これがため市場 はにわかに衰え堂島米商仲買人らはその活路を失うとともに、金穀の融 通も円滑を欠くに至った。磯野小右衛門らは再興をはかり、営業規則を 設けて大蔵省の許可を得、四年四日米市場の地に堂島米会所を設けて定 期米の売買を行い、難波蔵米(摂津米〉を標準として取引し、市場は再 び繁栄をとりもどし、六年三月以後は東京その他にも定期市場を公許さ れることとなった。  他方、油は古くから日常生活の必需品として米に次ぐ重要なものとし て幕府の干渉し来ったところで、八軒家に油相場所が設けられていたが、 二年二月の禁令によって油相場も禁止され、同年八月大蔵省通商司管理 のもとに中之島に設けられ大阪開商社(商事会社)の油相庭会所として 許可された。六年三月開商社も解散するに至ったので、堂島米会所と合 併されることとなり、堂島米油相庭会所と称し両者の取引を扱うことと なった。さらに五代友厚が鴻池善右衛門・三井元之助らとともに九年十 一月八日、油取引を切りはなして堂島米商会所と改め、米一本の売買取 引を行うこととなり、道路上での売買をやめ、浜側に掛出しをつくって 市場とし、帳場を設けて売買ごとにこれを記入した。仲買人は一等、二 等に分れ一等仲買人は他人の委託売買と自己の売買を行うが、二等仲買 人は自己の売買だけしか行うことができず、身許保証金は前者が二百円、           あきな 後者が百円であった。商いは現場(日仕舞)と定期(三カ月制)の二つ で、その売買手数料は現物十石につき三銭、定期十石につき十銭であっ た。  当時の会所の役員は次の通りであった。    頭取      磯野小右衛門    副頭取     田中喜平    肝煎(商議係) 進藤嘉七 北村治助    肝煎(検査係) 芝川又平 杉本弥助    肝煎(出納係) 鴻池善右衛門 三井元之助  かくて堂島米市が近代資本主義の面貌を整えることとなった。  米相場には天候を喧しくいうので、夏など大江橋や渡辺橋の夕暮れど き、相場巧者が暮れゆく西の空を眺めて天気論を戦わせ、この肉眼判断 で巨富を築いたものがあった。天明年間(一七八一−一七八八)ごろま で、相場を指先や身振りで信号することは厳に禁ぜられていたが、次第 に自由となり、仲買人は相場の高低を屋上の物干台から旗ふり通信によっ てリレー式に各地に知らせた。旗ふりの信号手は東は吹田桃山(千里 山)、茨木粟武山、柳谷を中継地として京都へ伝えたもので、費用がか からなかったので、電信・電話ができてもなかなか衰えず、明治四十年 ごろまで存続した。  堂島の勢威は大きく、料亭・花街・芸界・諸社寺の行事一切に羽振り をきかせ、神前や芝居の積俵は「堂島浜」の木札が一札あるだけで威力 があった。値段づけを得意先へ配るため丁稚が提灯をつらねて、道頓堀                  た だ まで出かけると提灯の屋号で芝居が無料で見られたという。明治二十五 年三月、五代目尾上菊五郎が角座へ来演したとき、堂島浜への挨拶の仕 方が気に入らないからとて角座の見物をことわってしまった。これがた め予定の初日は開幕できず、顔役の仲裁によってようやく四、五日延期 したこともあった。

   

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