Я[大塩の乱 資料館]Я
2011.10.21

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「大塩の乱関係論文集」目次


『北区誌』(抄)

その44

大阪市北区役所 1955

◇禁転載◇

第四章 明治時代の発展
  二 近代的商工業の発達
     堂島米穀取引所(2)
管理人註

正月の初相
場


























阿部彦太郎






北野平兵衛





















堂島米穀取
引所


























取引所の解
散






歴代理事長

 正月の初相場は星影寒く白い夜半から、各仲買店頭には店名を記した 弓張提灯が数知らずならび、市場の軒には紅丸に「米」の字を墨書した 大提灯をかかげ、大幔幕をめぐらして、場の内外で焚く大篝火の焔もか がやき、そのざわめきのなかを花街の女たちが紋付姿で往来する賑かさ であった。二代目理事長土居通夫の三十年一月四日の日記には  「堂島取引所初立会開始、年前三時より、同五時に至る。夫より祝賀  宴を催し、更に席を平鹿楼に移して豪華を極むること例の如く、余興  に越路大夫を招き肥後米十俵を祝儀とす」  とあった。この初立会も、大正時代は六時の立会となり、後には料亭 に花街の芸妓を招いて祝盃のうちに祝儀相場をたてるにとどまるように なった。  げきたく  撃柝一下、一手千両の市が立つといわれた堂島で、相場を大きくする 人を「仕手」と呼んだが奇行に富む人が多かった。先天的の相場師と評 された近江の人、阿部彦太郎は二十四年の秋、全国の売方を向うに廻し て買占めたが、一石当り二円も暴騰させて買方一党の利益金は数千万円 に上り、当時の帝国議会が難産した国家の予算額を上廻っていた。また その一党の一人、北平こと北野平兵衛は儲けた金を劇界や相撲に散じた ので、堂島の名が幅を利かすに至ったというが、彼の丁稚が芝居を見に      た だ 行って「無料では入れぬ」と断られ「みな買切るなら見せてやる」と挨       ・・・ 拶きれたのがしゃくにさわり「よし、みな買切る、俺は堂島の北平の丁 稚や」とどなったので、小屋では驚いて北平に問合わすと、平兵衛は 「そんなに云うてるのやったら買切ってやって呉れ」と返事したという 腹のあった人だった。  明治二十年五月取引所条例が施行され藤田伝三郎・阿部彦太郎・磯野 小右衛門らによって株・米・油・糸・砂糖などの取引所を一丸とした新 取引所の認可運動が起ったが実現せずに終り、二十六年十月取引所法の 施行に伴うて堂島米穀取引所に組織を改めた。  大正末期に米穀法が制定され、米穀の需給と価格の調節がはかられた が十分な効を奏するに至らず、昭和二年十二月所内に実物市場を開き、 六年六月銘柄別清算取引を行うようになった。八年三月米穀統制法が制 定されるようになって、ますます取引所の機能は減殺され、戦時体制の 進展とともに経営困難に陥った。十四年四月米穀配給統制法の制定によっ て、卸小売業者から取引所員に至るまで、米穀取扱業者に対し一律に許 可制が布かれたので、米穀配給機構の枢軸として新たに日本米穀株式会 社を設立して、政府監督のもとに現存の取引所、正米市場を一丸として 配給統制の完全を期することとなった。  【写真 堂島米穀取引所(明治40年ごろ)    遠望は府立図書館と日本銀行支店 略】  かくて取引所の土地建物等のまま新会社のもとに収容され、ここに江 戸時代の米市から長い歴史をもった堂島米穀取引所は昭和十四年九月三 十日をもって解散することとなった。  取引所の歴代理事長は次の通りであった。  玉手 弘通(明治二六・一〇  土居 通夫 (明治二八・八          二八・八)          三一・二)  五百井長平(  三一・二   杉山 岩三郎(明治三二・五          三二・四)           三二・一〇)  新田 義吉(  三二・一〇  磯野 小右衛門( 三二・一二          三二・一二)          三六・六)  広岡久右衛門( 三六・七   浜崎 永三郎 ( 三八・一          三七・八)           四四・一)  高倉 藤平(  四四・一   高倉 為三 (大正六・八        大正六・八)            六・一二)  宮崎 敬介(  六・一二   林 市蔵  (  一四・六)          一四・五)         昭和六・二)  浜崎 健吉(昭和六・二    実吉 雅郎 (  七・一二          七・一〇)           一四・一〇)  堂島浜通の取引所の跡地には最近記念碑が設けられ、仲買店などが建 てならんでいた浜沿い一帯の土地は終戦後、進駐軍の拘置所として監視 塔が建ち、浜通を鉄線で通行止にしていたが二十七年接収解除され、い ま大阪建物株式会社のビル建築用地となっている。

   
 

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