Я[大塩の乱 資料館]Я
2011.10.22

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「大塩の乱関係論文集」目次


『北区誌』(抄)

その45

大阪市北区役所 1955

◇禁転載◇

第四章 明治時代の発展
  二 近代的商工業の発達
     天満青物市場の盛衰
管理人註










青物市場の
衰退
































中央卸売市
場





















天満配給所

 秀吉の大坂築城のころ以来の古い歴史をもった天満青物市場は、市場 取締の上からも、取引方法についても急速な都市の発展に歩調を合せる べく努力がつづけられた。しかしながら時勢の赴くところ、明治年間に 入ってからは交通運輸事情の変化をみ、また諸般の事情は独占制の保持 を困難としたため、次第に往時の隆盛をみることができなかった。明治 六年従来の株制を廃止したが、悪徳商人の横行をみるに至り、府庁の允 許を得て市場仲間規則をつくり、市場の発展に力をつくしたが、奸商の 禍根を断つことができなかった。またこれまで抑止に努めてきた近接町 村落からの無断立売や仲買の産地直買がつづき、いまの堂山町には早く から北野青物市場があり、南に木津青物市場があり、衰退した商勢を挽 回することは容易でなかった。  その後の市勢の発展は市場の取引地域を広めあるいは北海道に、ある いは海外諸国への移出ともなって、市場区域の狭隘をきたすようになり、 四十一年十二月区域を拡張して龍田町浜通以東、金屋町以西及び淀川沿 岸以北裏町筋まで一円を市場区域とする許可を得た。その後も仲間員の 激増と取引量の増加はふたたび区域の狭隘をきたす有様で、市場にそう 河岸地の埋立許可を得て鉄筋コンクリートをもって床張をなし、仲間規 則を改正し、保証責任天満市場信用生産組合として大正五年四月十日大 阪府の許可を受けた。  大都市の近代的発展に伴い政府も生鮮食料品配給制度の確立に乗出し、 大正十二年三月中央卸売市場法の制定となり、本市においては昭和六年 三月現在の福島区下福島三丁目の中央卸売市場の落成をつげ、十一月業 務を開始した。この中央市場は旧来の天満市場をはじめ靭・雑喉場・木 津難波市場など数百年来の伝統と慣習を持つ市内の主な卸売市場を閉鎖 して、ここに収容しようとするものであるから、卸売業者の間に一大旋 風をまきおこした。いわゆる「単複問題」で、新しい中央市場に収容せ られる卸売人を一人とするか二人以上とするかの問題で、従来の業者が 両派に分れて争ったが、遂に五年十一月関市長の裁定によって形式的に は単一制、実質的には複数制をとることとなった。各種卸売人・仲買人 は青果・乾物・鮮魚などの種類ごとに新設された卸売会社の一員として、 新しい組織のもとに食料品の配給活動をはじめることとなった。  一方天満市場は木津難波市場と同様に中央卸市場の配給所となったが、 十七年八月大阪市が買収して分場として経営することとなった。しかし 不幸二十年三月十四日の空襲によって天満分場は焼失し、いま大川沿い に鉄骨の一部を残すのみであり、同分場跡は公園化の計画がすすめられ ている。

   
 

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