Я[大塩の乱 資料館]Я
2011.10.23

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「大塩の乱関係論文集」目次


『北区誌』(抄)

その46

大阪市北区役所 1955

◇禁転載◇

第四章 明治時代の発展
  三 淀川洪水と市勢の発展
     明治十八年の洪水
管理人註


淀川洪水の
沿革


























わざと切










洪水の被害






















被害状況







































救護活動

 古来大阪は水禍に悩まされてきたが、その後の主なものだけでも宝永 四年(一七〇七)、享和二年(一八〇二)、文化四年(一八〇七〉と、 たびたび淀川の洪水は大阪を脅かした。明治に入っても元年五月の大雨 は十二日夜に至り大和川・淀川の増水を来し、南は道頓堀から木津、難 波にかけ一面の泥海と化し、十四日には福島から曽根崎村一帯の浸水は 十四尺に達した。  ついで十八年六月は上旬からの降雨で淀川上流で堤防の決潰をきたし かけていたが、六月十日午前三時には土佐堀川の水量は一丈一尺五寸に 達した。この日、北河内郡役所から入った報告によると「大水に至るや、 各地老を扶け幼をさげて木を攀ぢ糧を輸してこれを救護せしめしが、水 益々暴漲して将に寝屋川堤を衝破せんとする勢なりしかば、昔享和の難 に野田村堤防を断って以って猛暴なる湛水を放注せし故轍に慣ひ、直に 北区野田村大長寺堤防を裁断し、二十日午後疏通の功成りしかば、湛水 は湍瀬をなして忽に流下せり」とあって、当時ながく人々に 「わざと 切」と称された。かくて二十四日ごろからようやく減水しかけたが、二 十八日午後から再び各川は増水した。  【写真 淀川洪水(安治川橋に押し流された橋材) 略】  七月二日はその災害が最高頂に達した日で、市内各河川は溢水し、こ とに中之島二・三・四丁目、宗是町では軒下五寸に迫り、辛じて二階や 屋根に難を逃れた人たちが、舟に救いを求める惨状を呈した。当時の大 阪鏡台工兵隊の防禦も及ばず、天満・天神の両橋とも遂に落橋し、つづ いて浪花(難波)・栴檀木・大江・淀屋・肥後・渡辺・筑前・常安・田 蓑・玉江・堂島大橋なども流失し、淀屋橋の落橋したときには溺死者を 出すに至った。このとき区内で浸水をまぬがれたのは地盤の一ばん高い 天満宮の周辺だけである。  【写真 浪花橋が流失したあとの仮橋      (右は豊国神社の鳥居と大村重成の碑) 略】  十八年九月二十日発行の朝日新聞附録による府下洪水被害表を摘記す ると次のようで、北区は西区についで被害が大きくその惨状のはげしさ がしのばれる、  【洪水の浸水区域図 (着色部分に浸水)略】       東 区   西 区    南 区   北 区  市郡とも府下総計 浸水戸数 一、七三八 二三、一一六  五、二三六  八、六九一  七二、五〇九 同 人口 六、三八〇 八三、五六七 一五、二八六 三三、九〇八 二〇四、一九九 同 学校          一四      一     一一      八六 流失戸数           七            一八   一、七四九 崩潰戸数          二二            一三   一、六二二 破損戸数   二      四二     二一    一八五  一五、〇三九 損害反別                             五、九〇〇町歩 死  者   一       七      二      一      五六 救民員数        一、〇〇〇  二、二九〇  二、四九一  七七、七〇六  このとき京都大阪間の第二列車以後は不通となり、堂島・北浜市場は 浸水のため休業し、家を追われ、水に追われた被災者は他区に逃れ、全 市民は食糧の不足に生命の恐怖をさえ感じたが、七月四日からようやく 減水しはじめた。府は米穀商を諭して暴利を戒め、大蔵省に稟申して官 米千六百石を、一升七銭で売却させて生活必需品の物価騰貴を防ぎ、ま た清潔法を励行して井戸を竣探せしめて流行病の発生を防ぐことができ たが、このときの府下の浸水戸数は実に七万二千戸を超えた。

   
 

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