Я[大塩の乱 資料館]Я
2011.10.24

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「大塩の乱関係論文集」目次


『北区誌』(抄)

その47

大阪市北区役所 1955

◇禁転載◇

第四章 明治時代の発展
  三 淀川洪水と市勢の発展
     鉄道・市電・私鉄の開通(1)
管理人註

大阪神戸間
の開通






























京都神戸間
の開通




















初代の大阪
駅






















鉄道の発達

 大阪市が近代都市として発展する第一歩は明治七年五月十一日大阪神 戸間の鉄道が単線開業をしたことである。大阪駅のできた曽根崎村梅田                          よしはら は大阪七墓――梅田・千日・飛田・蒲生・小橋・西原・葭原・長柄―― の一であった梅田墓地があったところで、大阪駅のことを大阪人はなが く梅田ステンションといった。まだ髷を結っていた人たちが汽車に乗る というより岡蒸汽を見物するために梅田に集ったといってよかった。当 時の大阪神戸間の運賃は上等一円、中等は七十銭、下等は四十銭で、郵 便はがきが一銭、米の値段は一升五銭位、一円出せば塩は二俵半、麦は 二斗五升を買うことができた頃のことである。どちらを向いても田や野 原ばかり、曽根崎新地の遊里までは運送店や茶店が二、三軒あるだけの さびしさで、駅の東西両側に庭園や小池があって汽車を待つ人たちが芝 生にころがっていて、高き十米の木造の鐘楼から″カランカラン″と発 車五分前の時を知らせていた。  【写真 開通当時の大阪駅 略】  ついで十年二月に京都への鉄道が開通して初めて京都神戸間が全通し、 二月五日には明治天皇が行宰されて厳かに開業式が挙行された。その日の 状況を浪花新聞の一節に  「同日前十時四十分梅田ステーションへ着御夫を合図に兼てより鎮台兵  士出張して鉄道線の東手に備へ置きたる六門の四斤砲より祝砲百一発い  とおだやかに放出す程なく御汽車は同場へ御着なると斉しく鉄道線の西  の北手と東の北手とに整列したる二大隊の兵士一斉に敬礼し楽隊楽を奏  し…………………」 とある。  初代駅のできたころは神戸京都行の列車が十二回で、乗客が日に五、六 千人、収入が約二百円位であった。それでも既に巾着切や置引きが跳梁し たらしい。当時の大阪駅は現在駅よりも西寄りに位置し、いまの中央郵便 局の地に東口があり、駅から市中心部への交通は西口の出入橋方面に出る 道によっていたもので、そののち明治十九年ごろ六間幅の桜橋筋が開かれ たがこれも渡辺橋で行き詰まって南へは行けなかった。そのころ曽根崎の 料亭静観楼(いまの産経会館の地に戦災前まであった)は汽車を見物する のに絶好の場所となり、庭園の一隅に木造二階建の洋館を新設して窓外の 菜の畑ごしに汽車を眺めつつ酒宴が催された。  【静観楼(「浪華の魁 明治15年刊行) 略】  その後のわが国の近代的発展のテムポは早く   二二・七・一   新橋・神戸間全線開通   二八・一〇・一七 大阪鉄道会社(城東線)開業   二九・九・一   新橋・神戸間急行列車運転開始   三一・四・五   西成鉄道会社(西成線)開業   三二・七・一五  阪鶴鉄道線(福知山線)全通   三四・五・二七  山陽鉄道線全線開通   三四・七・一   駅改築工事落成  と「大阪駅沿革誌」に当時の活況が示されている。これらの民間鉄道会 社は何れも明治四十年頃までには政府に買収され、また大阪駅前には名物 の粟おこしや土産物を売る店・旅館・料理屋などが建てつまってきた。

産経会館は、
2008年、
ブリーゼタ
ワーに建替
































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