Я[大塩の乱 資料館]Я
2011.10.25

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「大塩の乱関係論文集」目次


『北区誌』(抄)

その48

大阪市北区役所 1955

◇禁転載◇

第四章 明治時代の発展
  三 淀川洪水と市勢の発展
     鉄道・市電・私鉄の開通(2)
管理人註


二代目大阪
駅













市電の開通



























阪神電鉄












阪急電鉄

 大阪市が近代都市として発展する第一歩は明治七年五月十一日大阪神  二代目大阪駅が旧駅より東寄りのほぼ現在駅の地に完成したのは三十 四年七月で、当時の駅は大阪の玄関を飾るにふさわしく、中之島の日本 銀行支店とならんで洋風建築の粋をあつめた煉瓦造であった。その駅舎 の正面を飾っていた「噴水小僧」の像はいま中央構内正面奥に鎮坐して いる。この頃、日に一万七千人の乗降客があり、市勢の発展に伴い交通 量は年とともに増加した。  明治三十六年四月に大阪に第五回内国勧業博覧会が開催され明治天皇 の行幸もあったが、同年九月わが国最初の市営電車が開通し、花園橋・ 築港間を二階付電車が開通した。第二期線の一として渡辺橋―大江橋― 大阪駅前―四ツ橋―難波―恵美須町間の南北線が計画されたが、当時は 市電を敷設すると家屋が切取られるため、敷設に反対する市民もあり、 たまたま日露戦争のため地方団体の事業は一時頓座をきたすの止むなき にいたり、このため南北線が開通したのは四十一年八月一日のことであっ た。   ″春咲く花の梅田より    乗出す電車も心地よく    曽根崎新地打過ぎて    行くや堂島、中之島″  梅田を起点とする私営電鉄として阪神電気鉄道株式会社が三十二年六 月創立され、三十八年四月十二日に出入橋を起点として神戸市加納町 (三宮)まで開通した。いわゆる都市間の郊外電鉄としてはこれが第一 号で、営業路線二十哩を一時間二十分で走り、これまで汽車の煤煙に悩 まされた乗客は、さわやかな風を窓にして、郊外の風景を飽かず眺めた。 当時の乗客数は一日平均一万五千余名、この料金千六百四十円であった。  京阪神急行の前身、箕面有馬電気軌道株式会社は三十一年一月、発起 人会を設け事務所を兵庫県川西町におき、宝塚本線及び箕面線が開通し たのは四十三年三月である。それまで宝塚、箕面へは泊り掛けで行かね ばならなかったのが、この開通から日帰りに短縮され、また豊中、池田 の郊外住宅地が発展することとなった。大正七年二月阪神急行電鉄株式 会社と改称きれ、九年七月神戸線の開通は夙川、岡本の高級別荘地の発 展を促がし沿線の開発に寄与すること大であった。開業当初は乗客が少 く″ガラアキで涼しい電車″という標語で宣伝していた。
































大阪市街電車
唱歌(1908)
1番、
大和田建樹
作詞
 

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