Я[大塩の乱 資料館]Я
2011.10.26

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「大塩の乱関係論文集」目次


『北区誌』(抄)

その49

大阪市北区役所 1955

◇禁転載◇

第四章 明治時代の発展
  三 淀川洪水と市勢の発展
     瓦斯・電灯・水道の普及
管理人註

石油燈


















































小林佐兵衛












大阪瓦斯株
式会社














大阪電燈株
式会社








電燈の普及

































上・下水道

 明治初年というと家庭では未だ行燈を主として、ようやく石油燈の発 達をみようとしていた時代で夜間は近所の銭揚へ行くのにも捏灯を携え て通行していた。この不便を減ずるため街燈を設けて石油燈を点じ、四 面の硝子には方位と所荏地の町名を表示してあり、市内に点燈請負業と いうのがあって、脚立を肩に荷ない、昼間は石油の補充、ホヤの掃除を なし夕刻にマッチで点火して廻った。明治十一年三月の調査による北区 (当時の区域による)内の街燈基数は左の通りで、
 区 名 基  数 請負人
一小区七一二六三
二小区五九
三小区五三小林佐兵衛
四小区七三 
難波橋上 七
五小区四八八三 
六小区三〇物部 直
山崎鼻 五 
安治川橋上  二塚原新之助
  計 三四八 
  この点灯に要した経費は、一基一夜につき油一合三勺、この代金見 込額二十一円、賃金八厘二毛二糸ずつで区民の負担するところであった。  請負人の一人小林佐兵衛は真砂町に住まっていた侠客であった。佐兵 衛は北野小松原町に病者・孤児・不具者などを収容する小林授産場を設 け、また消防組を育てたり、いまの梅田東小学校のあたりに小林遊園地 を設けるなど明治時代の北区の発展に尽した見識の高い人で、大正初年 八十八才で歿し、同小学校の地に銅像も建てられていたが、この銅像は いま高野山上奥の院参詣道に移されている。  近代的な灯火として「ガスランプ」が最初にできたのは明治四年で、 造幣寮内に瓦斯製造所が設けられ、寮内に六百六十余灯が点火された。 大阪瓦斯株式会社は二十九年十月に設立されたが、財界不況のため事業 の着手に至らず、開業をみるに至ったのはようやく三十八年十月二十日 であった。同社の本社は三十八年八月中之島三丁目(現在の朝日ビルヂ ングの位置にあり、昭和二年敷地を斬日新聞社にゆずって東区平野町御 堂筋角に移転した。  また大阪にはじめて電燈のついたのは明治十六年十月三軒家の大阪紡 績会社の自家発電によるものであり、一般には大阪電燈会社設立後のこ とで、同社は明治二十年の設立にかかり、二十二年五月堂島に開業した。 はじめ電燈は官衙、事務所などにおける利用は多かったけれども、電燈 料金が十六燭光夜間定額一カ月二円五十銭で石油燈に比して割高であっ たため、家庭用としての利用は阻まれ勝ちであった。「日清戦役後、我 邦は戦捷の為、一般に好景気を呈し、償金の流入などにより物価昂騰停 止する所を知らず、会社も亦前後三回に捗り料金値上断行の己むなきに 至りし為、一時需要の増加を阻止するところありしが、次で起りし石油 市価の昂騰は需要の大勢を一変し、明治三十六年上半期は一躍一万五千 燈を算するに至り、之より続々石油燈を廃すの風を生じたり」(大阪電 燈株式会社沿革史)という状況で、四十二年の北区大火の原因はなお石 油ラムプからであった。  日清、日露の両戦争を経て、これらの文化施設もようやく普及をみた が、これを営利会社に独占せしめることば適当でないので、三十六年八 月、市は大阪瓦斯株式会社との間に報償契約を結び、つづいて三十九年 五月、市と大阪電燈株式会社との間に報償契約を締結し、その後、大正 十二年十月に至り、多年の懸案であった大阪電燈株式会社の買収を実行 して、遂に電燈電力供給事業を市営とするに至った。市営電燈電力供給 事業は昭和十七年四月配電統制令の定めるところによって、その事業の 大部を関西配電株式会社に譲渡した)  これよりさき明治十八年には洪水、十九年はコレラの大流行があり、 さらに二十三年九月には「新町焼」があり、衛生の上からも、防火の上 からも上、下水道の必要が痛感され、二十八年一月には市営水道が敷設 され、二十七年に下水道改良計画が樹立され、三十四年にはその完成を みた。

小林佐兵衛は、
司馬遼太郎の
小説『俄』の
モデル


梅田東小学校
は、1989年、
大阪市立大阪
北小学校に統合




















 

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