曽根崎村については「西成郡史」に「往古此処曽根洲とて新海の地に
して八十島祭の旧蹟なりしとぞ。後農園の地と開けて曽根の里の称あり。
(村誌曰く曽根崎洲又渡辺津と云ひしとぞ)何時の頃よりか曽根崎と更
まれり」とある。
「摂津名所図会大成」には「此辺すべて田圃なりしを浪花繁栄につき
田を埋みて民家をたつるゆへ埋田と字せりといふ」とあり。ウヅメタす
なわち沼沢の地を埋めて田とした土地なので、これに梅の字をあてて梅
田と称したというが、湿田の多い地で、墓地もあって、あたりはまこと
に寂蓼の地であった。(いまの大深町、小深町の町名は低湿地であるこ
とから由来しているといわれ、現に地盤O・P一米四で区内の最低地盤
である)
いまの堂島西町浄祐寺のあたりを梅田道あるいは梅田堤といったが、
江戸時代には例年五月五日夜明けから近在の農家に飼う牛に新しい鞍を
おいて角に草花を結い、全身を飾って梅田道で牛を心のままに放ってや
・・ ・
る行事があり、多数の牛が集まったが、これを俗に牛かけまたは牛のや
・
ぶ入りというた。
【明治三十年接続町村編入当時の北区】
曽根崎新地一丁目から三丁目までは宝永五年(一七〇八)に市中の天
満組に編入され、明治四年十月、梅田に停車場敷地が定められ、二十二
年四月の町村制施行に際して曽根崎村が設けられた。これよりさき明治
十二年四月から西成郡役所は曽根崎にあったが、同二十三野十二月に上
福島村浄正橋筋の新築庁舎に移った。編入当時、曽根崎新地裏通から北
(いまの電車道の方は一段と低くなっていて、いまの曽根崎上四丁目の
したはら
商店街のあたりは下原と呼ばれ「下原の樋」(いまのスエヒロの前あた
り)があり、乞食小屋や紙屑屋が密集していたので「下原の人」とか.
「下原から来た」というと嫌われた。下原の樋から北に通ずる細流があ
り、都橋が架けられていて、馬かけ場といわれた広場もあった。いまの
曽根崎警察署の近くも村山龍平の別宅があるという閑静さで、地租が高
くつくので土地の買い手がなく、酒をつけて土地を引きとってもらった
という嘘のような話もある。
|