北野村
鶴の茶屋
凌雲閣
川崎村
豊崎村
堂島浜に市
役所移転
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北野村は曽根崎村の東北に隣って、往古は兎鹿野(菟餓野)ともいい、
承和九年(八四二)北野に改められたという。早くから青物市場があっ
て戸数人口も増加し、明治二十二年から北野村として独立した。北摂一
帯の農村から中津川を渡って市中に入って来る車馬も多かったので牛宿
と称する牛馬を泊める家があったり、北野市場の近くには青龍館という
寄席があり、いま も残っている歯の神様も名高かった。
【写真 歯神の祠一北野劇場のちかく− 略】
明治初年までいまの梅田東方面は春は菜種花匂う野ッ原で、都心部の
人たちが花を賞で月を楽しむ憩いの場として、鶴の茶屋や萩の茶屋、車
の茶屋などの料亭が風雅の客を招いていたところで、現在の鶴野町、茶
屋町の名はそれに由来している。東京浅草に十二階ができ、大阪では日
本橋に五階があり、千日前に楽天地がはやったように、高い建物が珍し
がられた時代の産物として、明治二十二年四月五日北野茶屋町、いまの
梅田東小学校のあたりに凌雲閣が落成した。凌雲閣は堂島浜通一丁目の
檀重三の計画になり、約三千九百坪の地に十三間四面の二層楼の上に八
角形の六層楼を築いて、さらにその上に展望台を設けた計九階建で、総
高約百三十尺あった。二百坪ばかりの池にはボート、温泉場、大弓場、
料理屋などがあり、都人士の遊楽地となっていた。
【写真 鶴の茶屋跡にある碑 略】
【写真 凌雲閣(明治22年開場) 略】
川崎村は天満の北にあたり、川の頭にあたるので川崎と称したといわ
れ、天満の出作地であったが、宝暦六年(一七五六)ごろから一村をな
し、明治六年村の一部を市中に編入されたが、明治二十二年には川崎村
として独立した。早くから工業地としてひらけ、文政二年(一八一九)
渡辺朝吉の硝子工場、明治十二年に奥村源次郎の友仙染工場、ついで大
阪時計会社、二十年三月には資本金百二十万円をもって天満紡績会社
(三五年に合同紡績に合併さる)、二十一年四月には伊藤契信の日本硝
子製造会社が設立され、大阪製油会社もでき、二十三年四月には天満織
物会社が設立されて、編入当時すでに市中と変らない状況であった。
編入前の右の三カ村における戸数人口はつぎの通りであった。(「西
成郡史」による)
村 名 明治十八年末 明治二十八年末
戸 数 人 口 戸 数 人 口
曽根崎村 二,四二八 九,一九六 二,九六一 一二,九七七
北野村 一,三八五 八,五四一 二,八二一 一一,五七〇
川崎村 九三〇 三,三一五 一,八六二 七,六六七
豊崎村は明治二十二年国分寺・南長柄・北長柄・本庄・南浜の各村の
区域を併合して設けられたもので、そのうち大字国分寺は川崎村の北、
南長柄村の南に位する。遠く天平年間(七二九)国分寺が建てられた地
といわれ、国分寺は「摂津名所図会」によれば禅宗黄檗派天徳山と号し、
こ
中興は南源和尚という。
以上のように市域が拡張され面目を一新し、翌三十年十月、官治王義
にもとづく市制特例が廃止され、ここに一般市制の適用をうけて大阪市
は独立の自治体となった。三十三年十二月市役所は西区江の子島上の町
木津川橋東詰の仮庁舎に移り、さらに四十五年五月北区堂島浜通二丁目
の市庁舎に移った。〈中之島の現庁舎は大正十年五月の凌功にかかる)
明治十三年四月の区町村会法以来、二十二年四月の市制特例まで、北
区会はあたかも現荏の市会と同様の権限組織もつ議決機関であったが、
市制特例の施行された翌二十三年七月市条例によって財産区の議決機関
としての区会が設置されることとなった。従って三十年四月の市域拡張
の後も財産区の区会を設置されたのは従来通り野田町外九十三カ町区で
あって、現在の都島区野田・相生・網島の各町、福島区の安治川上通・
北安治川通、西区の南安治川通・富島町・古川町を含むものであること
に変りはなかった。
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