Я[大塩の乱 資料館]Я
2011.10.30

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「大塩の乱関係論文集」目次


『北区誌』(抄)

その53

大阪市北区役所 1955

◇禁転載◇

第四章 明治時代の発展
  四 市域の拡張と明治後期
     北区の大火(1)
管理人註


大火の発生




















第一防火線













第二防火線












第三防火線


















消防活動

 明治四十二年七月三十一日午前四時二十分、空心町二丁目七〇のメリ ヤス業玉田庄太郎方のランプから出火、附近の松ケ枝小学校を焼き、東 北の疾風にあふられたのと、時は三伏の候うちつづく早天に市内はもと より接続町村から来援した消防組の活躍も空しく、火は松ケ枝町を西に、 壷屋町を襲い、河内町、此花町を火の海と化した。それから火の手は南 北に分れ一は此花町から北西に、他は南に進み、天満宮は消防手の必死 の活動に難をまぬかれたが、天神橋筋二丁目から南森町を一掃し、午前 十一時三十分には天満堀川の岸に達した。  【写真 裁判所建物の猛火 略】  天満堀川は第一防火線とされていたが、その両岸にある竹屋が川中に 差し出していた竹竿をつたって火が西岸に移ったという。伊勢町、富田 町、木幡町を焼いて西天満小学校もまた災禍にかかり老松座・老松神社 を全焼し当時若松町にあった北区役所も北警察署・大阪控訴院・地方裁 判所とともに火焔につつまれた。控訴院前面の堂島川浜一帯に群集して いた避難者は持ち出した家財を顧みる余裕もなく、阿鼻叫喚の修羅場を 現出し、猛火は幾多の生霊を犠牲とした。西堀川町方面の火勢は東梅ケ 枝町、西梅ケ枝町から北野に達し、第二防火線として頼んだ梅田新道を 突破し、近松門左衛門の戯曲に有名なお初天神や蜆橋の焼け落ちたのは 午後八時三十分であった。堂島浜通から堂島米穀取引所、北の新地、桜 橋の福井座を焼き、曽根崎警察署(当時いまの北消防署の地)と静観楼 (いまの産経会館の地)を半焼せしめた猛火は出入橋に近づいた。この とき風速は毎秒一七米三乃至一九米四の烈風に変じた。  第三の防火線とした緑橋(当時の曽根崎川にかかる)筋すなわち出入 橋附近一帯の空地、堂島堀割も火勢を阻むに由なく、そのころ堂島浜通 二丁目(いまの堂島西町)にあった市立高等商業学校、大阪測候所や知 事官邸を一なめにして堂島高等女学校を七分焼きとした猛威は上福島に 入り、上福島一・二・三丁目を、また他の火の手は上福島中一・二・三 丁目を烏有に帰し上の天神、福島郵便局を焼いた。折柄風速が衰えたの と消防の活躍によって福島中の天神石垣から日本紡績株式会社の高塀に 至って、ようやく鎮火するに至ったが、時に八月一日午前四時、猛火は 実に一昼夜にわたった。  出火とともに北警察署をはじめ、市内各警察署長以下消防組員は出動 し消火に努めたが、三十一日午前八時半には高崎府知事に具申して第四 師団の応援出兵を要求した。土屋師団長はこれに応じ天満堀川西岸の防 火線にあたる民家の破壊作業に従事せしめ、師団長自ら出馬し、午後六 時三十分には「大阪衛戊部隊は勤務に差支なき限り出兵すべし」と命じ、 高槻工兵第四大隊・砲兵第四聯隊・輜重丘第四大隊も破壊作業にあたり、 出動兵力三、三九四名に達した。罹災面積は約三十七万坪、東西千八百 四十間、幅員の広いところでは二百間に達し、罹災町数五十一カ町・焼 失戸数一一、三六五戸・官公衙一一、学校八、神社四、寺院一六、銀行 四、・会社一〇・橋梁の焼失するもの二一に達した。

   

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