Я[大塩の乱 資料館]Я
2011.9.10

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「大塩の乱関係論文集」目次


『北区誌』(抄)

その7

大阪市北区役所 1955

◇禁転載◇

第二章 江戸時代の繁栄
  二 蔵屋敷と堂島米市場
     蔵屋敷の発達(1)
管理人註












商品生産
























蔵屋敷























払米

 江戸時代に至って国内の交通は大名の参勤交代の制度によって陸上の 交通が頻繁となり、菱垣廻船など有力な船舶の利用によって海上の交通 も賑わった。また平和のつづくにしたがって国民の生活程度は向上し、 需要の増加にともなって未だ手工業の域は脱しないが、諸藩における奨 励策と相まって織物・陶磁器など各種の工業が各地に発達してきた。  商品生産も次第に盛んとなり、商人は活動の機会が大となり、商業の 発達につれて取引の範囲、すなわち市場は拡大されて全国的となり、江 戸・京都・大坂の三都、特に大坂は海陸交通の要衝であるところから商 業の中心地となってきた。「近世風俗志」によれば「三都生業不同の事」 を論じ、京都・大坂・江戸の経済的性質を一言にして「大坂商賈、諸国 の産物を始め、来舶の諸物も一たび当処に漕せざれば速かに金銀を換へ 難く、小価の物は他国にても金に換れども大価に至りては必ず当地を速 也とす。又当時諸国の多少を知ること当所を一とす。故に元価を定むる も当所にあり」と。また「諸国にて出来る米穀をはじめ材木・、炭・薪・ 酒・醤油・塩・油・綿布・蝋・綿・木綿其外一切の魚・鳥・石・焼物に 至るまで、其国々の産物」(商人生業鑑)が荷揚げされ、大坂は物資の 一大集散地となった。  諸侯は各々その領地の特産物を売りさばくため大坂に蔵屋敷をおいた。 蔵屋敷は加賀の前田侯が天正年間に設けたのが始めであるといわれ、次 第に諸藩の蔵屋敷ができ、各藩から米その他の物資が大坂へ廻漕された。 蔵屋敷を設けたのは、ひとり諸侯にとどまらず、宮家・三卿・社寺・旗 本などにも及び、江戸時代大坂の商業が発達したのはこの蔵物の取引を 中心にしておった。蔵屋敷は大てい、船着きの便利な場所が選ばれ浜に 沿うて荷揚げ場があり、「御舟入」といって舟が入っていく入堀があっ た。蔵屋敷の最も多かったのは中之島で、堂島・天満・土佐猟・江戸堀 などこれに次ぎ、中之島は渡辺橋から西はすっかり諸藩の蔵屋敷の瓦葺 きの土塀がつづいていた。   【写真 佐賀藩蔵屋敷 略】  蔵屋敷最多の商品は米穀で諸国から年々大坂へ入る米は三百万俵にも 上ったといわれ、寛永正保の頃(一六四〇頃)から蔵米売却の方法とし て米切手が発行されるようになった。蔵屋敷に入津米があると間もなく 蔵屋敷の門前と渡辺橋の北詰に「何米何俵」と払米看板が出され、それ をみて買手が買値をしたためて差出し、開札の結果は蔵屋敷の門前に掲 示され、落札者は落札の翌日敷銀を納め、予定の期日に代価を支払って 米切手を受取った。蔵米を蔵屋敷から買取ることのできるのは米仲買に 限ったが、蔵によっては自ら出入の米仲買が一定していた。


















『近世風俗志』
は、『守貞謾稿』、
天保8年(1837)
起稿、喜田川守
貞の著。








『商人生業鑑』
は、宝暦7年
(1757)岩垣光
定の著

『北区誌』(抄) 目次/その6/その8

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