市民の税としては公役と町役に分たれ、公役は御用人足賃・支配打銀・
火消人足賃の三者が主なもので、前二者は惣会所の人件費その他の費用
に充当し、後者は消防関係の費用に充てられた。火消人足としては鳶・
水手・団扇・水弾きの四者があり、団扇で火の手を先方へあふり返した
というから、今日からみれば奇想天外ともいうべきものであった。
町役というのは町年寄以下の礼銀給料・水道竣費・橋梁普請費・神社
仏閣の初穂料などに充てるためで、これらは役割、顔割、坪割、間口割
などで賦課した。橋には橋梁普請費を官費で架替修繕を行う公儀橋と、
各橋両詰の町々が経費を支弁することになっていた町橋があった。幕末
時、公儀橋として官費で架替修繕したのは京・野田・備前島・鴫野・天
満・天神・難波・高麗・本町・農人・長堀・日本橋の十二橋で、これ以
外の橋は.すべて町橋であった。これら町橋の費用を負担した各町を橋
掛町と称したが、河川についても天満堀川の維持修繕について掛町十二
カ町で負担していた記録が残されている。
寛永十一年(一六三四)七月、三代将軍家光が上洛のとき大坂城に立
寄り、三郷の惣年寄以下諸役人を召集して、大坂・奈良・堺の地子銀
(地租にあたる)の免除を宣告したので、町民の喜びは一方ならず、秀
吉の遺徳を忘れても徳川家の安泰を祈るようになった。その恩恵を将来
に記念するため高麗橋口上の方(いまの釣鐘町)の古屋敷に釣鐘堂を建
て、高津二ツ井戸の附近に鋳工場を設け、天満裏門大工町の鋳物師宗右
衛門を頭として釣鐘を鋳造した。これをその釣鐘堂に納めて三郷から毎
日町年寄が六人ずつ交代して詰め、時の鐘(いまこの鐘は府庁の楼上に
ある)とし、明治三年に至るまで約二百四十年の久しい間、朝夕これを
鳴らした。
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