Я[大塩の乱 資料館]Я
2011.9.9

玄関へ

「大塩の乱関係論文集」目次


『北区誌』(抄)

その6

大阪市北区役所 1955

◇禁転載◇

第二章 江戸時代の繁栄
  一 城下町としての発展
     公役と町役
管理人註

公役と町役
















公儀橋と町
橋















地子銀の免
除

 市民の税としては公役と町役に分たれ、公役は御用人足賃・支配打銀・ 火消人足賃の三者が主なもので、前二者は惣会所の人件費その他の費用 に充当し、後者は消防関係の費用に充てられた。火消人足としては鳶・ 水手・団扇・水弾きの四者があり、団扇で火の手を先方へあふり返した というから、今日からみれば奇想天外ともいうべきものであった。  町役というのは町年寄以下の礼銀給料・水道竣費・橋梁普請費・神社 仏閣の初穂料などに充てるためで、これらは役割、顔割、坪割、間口割 などで賦課した。橋には橋梁普請費を官費で架替修繕を行う公儀橋と、 各橋両詰の町々が経費を支弁することになっていた町橋があった。幕末 時、公儀橋として官費で架替修繕したのは京・野田・備前島・鴫野・天 満・天神・難波・高麗・本町・農人・長堀・日本橋の十二橋で、これ以 外の橋は.すべて町橋であった。これら町橋の費用を負担した各町を橋 掛町と称したが、河川についても天満堀川の維持修繕について掛町十二 カ町で負担していた記録が残されている。  寛永十一年(一六三四)七月、三代将軍家光が上洛のとき大坂城に立 寄り、三郷の惣年寄以下諸役人を召集して、大坂・奈良・堺の地子銀 (地租にあたる)の免除を宣告したので、町民の喜びは一方ならず、秀 吉の遺徳を忘れても徳川家の安泰を祈るようになった。その恩恵を将来 に記念するため高麗橋口上の方(いまの釣鐘町)の古屋敷に釣鐘堂を建 て、高津二ツ井戸の附近に鋳工場を設け、天満裏門大工町の鋳物師宗右 衛門を頭として釣鐘を鋳造した。これをその釣鐘堂に納めて三郷から毎 日町年寄が六人ずつ交代して詰め、時の鐘(いまこの鐘は府庁の楼上に ある)とし、明治三年に至るまで約二百四十年の久しい間、朝夕これを 鳴らした。

1985(昭和60)
年、釣鐘町に
里帰り。


 

幸田成友『江戸と大阪』その48


『北区誌』(抄) 目次/その5/その7

「大塩の乱関係論文集」目次

玄関へ