Я[大塩の乱 資料館]Я
1999.10.4/2008.4.19修正

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大塩の乱関係論文集目次


「猪飼敬所の観た『大塩騒動』」

木崎愛吉 (1865−1944)

『日本及日本人 第788号』政教社 1920 より

◇禁転載◇

―小 引―

 天保七、八年の頃、京の老儒猪飼敬所(七十六、七才)が、大塩騒動を噂の聞書として、伊勢津藩の門人平松健之介(櫟斎)への報告の手紙を本とし、その他の材料によりて、談話体に書きかへてみる。噂だから間違ひもあらう、聞き誤りもあらう。けれども当時その事実が、如何に直覚的にこの半聾半盲の老人にひゞきしか、妙味は却つて這裏にある。

 むかし天明四年の飢饉に、京の町奉行所から窮民のお救ひ米を出した時、こんな落首がはやつた。

―― 公儀より鳩の食ふほど救ひ米      仰山さうに年寄来い来い ――

 お上のすることは、何事でもこんな調子で「鳩の食ふほど」ちつとばかりのお救ひ米を渡してやるからと権柄らしく「仰山さうに年寄り来い来い」と町年寄を呼び出して、手数のかゝることが夥しいから、困つたものさ。それで天保四年の飢饉にも、奉行所から町年寄へ触れ廻つて、窮民の数を申し出るやうにと沙汰をしたが、どこの町内からも、一向その申し出がなかつたから、四五日経つて又、心得違ひのないやう、十分取調べよとの事だつたが、矢張り届けて出るものがない。それは生じつか届けを出すと、ヤレ奉行所へ出頭せよ、届出の人数は間違つてゐないかといふ吟味がうるさく、いよいよお救ひ米が出るといふと、又々幾度も呼出されて、町年寄はその度毎に、時間と手数とがかゝつて、結局救うてもらうよりか、失費が多いからといふのだ。そこで町年寄は、その町限りで手当をして、成り丈奉行所の世話になるまいとする。

 それで、今年(天保七)は、伊勢以西、近畿、山陰、四国あたりは皆七八分の作、九州は豊作だが、東北地方は一帯に飢饉で、大阪から江戸へ米を廻すといふので、大阪の相場師はそれに附け込んで米価を躍らし、播州ではそれが為に暴民が騒ぎ出した。これにつけても京大阪の米市は停止したいものだ。けれどもこんな連中は、皆役人とグルになつて仕事をするのだから困る。役人が皆大塩のやうであれば、そんなこともあるまいが、さてさて役人のすることには、手の著けやうがない。

 俺は、この秋但馬豊岡藩の学校(稽古堂)へ招かれて講釈に往つたが、道中、どこも彼処も、飯米不足で、旅籠屋なぞも宿泊を断るところがあつた位だ。

 「津あみだ、郡山観音、水戸勢至」といつて、この三藩の仁政は世にかくれもない。水戸の事は知らないが、郡山は東江州に領地が三万石もあるけれど、年貢は全く取り立てず。同じ江州でも彦根あたりは、随分苛政をやつてゐるらしい。津は毎度講釈に出かけるから、その仁政はよく知つてゐる。若州小浜へんも困窮がひどいさうだが、領内の極貧民には粥を与へ、又日々三合づゝの廉売をやつてゐる。越前福井は、そこ迄行届かぬらしく、山手へかけては餓死が多い。豊前小倉は、この正月に城内の大火で、その事を江戸へ届ける急使が上下七人、昼夜三十里を打通すといふので、道中宿々人足駕籠が一丁毎に十六人づゝ手替りする。その入費だけでもおそろしい。豊岡では他国から米を買入れ、一万五千石の領内、二千七百人の窮民へ、一日一合づゝの粥を施したり、急がぬ普請を始めて、賃銭を取らせてゐる。それで麦の取入れが済んでからも、食料不足で困つてゐると、家老の舟木外記からも、そんな手紙をよこした。京極侯が京の町を通行の節、俺も出迎へに往つたが、その時の物語に、領内は二年つゞきの洪水で、ドシドシ米の買入をしてゐるといふお話だつた。当主は何分倹約一まきで、領内一統みなその趣意を守つてゐる。俺が逗留中にも、その接待が汁あれば菜なく、菜があれば汁はつけない。外記は御趣意をよく徹底させたといふので、四十石の加増を頂戴した。

 塾の学僕で、備中から来てるものが、この間帰郷して、三月廿二日(八年)に戻つての話に、備中では米が百七十匁、備後は百三十匁で、米は一切他国へ出さず、大阪は備中同様百七十匁、京は二百廿匁、――平年でも大阪からの運賃が七八匁かゝるのだが、相場の高下もひどいぢやないか。先達て当四月迄は、他国から直接米を買入れることを免許するといふ事だつたが、京の町人が大阪へ米を買出しに下ると、何故か早速入牢申付けられたのは、さつぱり役人の手心がわからぬ。丹波笹山は、それでも藩士の禄を減らすまでには至らないが、伊勢の亀山では可哀想に半減といふことだ。

 大阪ではとうとう大騒動がおつ始まつた。二十日の朝塾生が、昨日大阪は大火で、天満の与力屋敷から出火したといふ噂を聞いて来たから、大塩は定めし類焼を免かれなかつたゞらうと、一両年音信を絶つてゐるけれど、早速見舞の書状でも出さうとしてゐると、これは何うだ! 高槻から来てゐる塾生の手元へ、そのおやぢからの急飛脚で、大塩が火をかけて暴れてゐる、夜前四ツ半時から御城代からの頼みで、高槻から甲冑姿で加勢を出した程だから、早々帰藩せよといふことなのだ。二十日の朝になると、笹山藩の京屋敷留守居の息子がやつて来て、高槻の同役からも諸国の留守居へ、それぞれ、大塩騒動の廻状がまはつたといつて、その写しをみせたりした。いよいよ諸藩援兵の事が確かになつて来た。

 廿二日になると、大塩一類が京へ逃げて来はせぬかと、見付かり次第注進のお触れが出た。俺の方へは中座(目明し)の役人が度々来て――俺と大塩の交際を知つてゐるから――大阪からお客はないかなぞといつて調べに来る。ところで宅の下男が、この十八日に大阪へ帰り、二十二日に戻つて来ての話に、十九日の八ツ頃から、鉄砲の音が聞えぬやうになつたから、大塩は何処へ逃げたらうといふ評判が高く、高槻はじめ尼ケ崎、岸和田あたりからの加勢の人数は、みな夜に入つたから、あとの祭りとなつて了つた。  廿三日になると、大塩が甲山へ籠つたといふ風聞で、大阪城代から京の所司代へその趣きを通じ、町奉行からは人数を山崎迄差し出せといふことだ。江州膳所へも加勢を申し来り、塾に居た黒田五平治(梁洲)なぞは、一番手先陣の武具支度で何時でも出立すると力んでゐるさうだ。ところで甲山には猫の仔一匹居なかつたので、やがて又その虚説を大阪から知らせて来たといふ滑稽さ、その外、淀も亀山も皆手当を怠らなかつたといふことだ。

 ところで肝心の大塩の行方はかいくれ分らず、若党だけが二十二日に伏見で捕へられたとの取沙汰だ。京大阪往来の者は一々荷物をほどかれて、厳重な吟味を受けるさうだ。大塩の母の兄弟が、吹田の神主の家に隠れてゐるといふので、捕手が馳せ向つたが、手早く割腹したといふ噂だ。守口の百姓も捕へられたが、それは訳分らずに、大阪へ隨いて往つた迄だから詰らん話さ。俺の門人中にもだんだんそんな事から捕はれたものもある。

 一体、大塩には大阪の町人が皆帰服してゐるのだから、よしんば丸焼けに逢はされてもヤツパリ大塩様のはたらきで世直しが出来ると喜こんでゐるといふことだ。大塩は騒動を起す以前に、立派に関東寺社奉行へ、その企てを届けて、役人の不心得を罵り、窮民救助の為に旗挙げするのだから昔の丸橋忠弥などゝは事が違ふといつてやつたさうだ。それで大和河内へんへ、その主意を落し文に書いて振り撒いたが、十八日に徒党の同心が裏返りして、町奉行へ注進し、伜格之助が立腹して、そやつを一刀の下に斬殺し、事露顕に及んだが、奉行の方では多勢の同心中、大塩へ徒党するか、して居らぬかとの十分取糺しも出来ないうちに、翌十九日彼は事を起したのだが、元来は十八日にやるつもりだつたのだ。

 大塩の志は、無論窮民を救ふといふ事であつたとしても、旗を立て、棒火矢を造り、白昼町家へ放火するといふことは乱を作すといふものだ。姦吏を殺すのが主意ならば、夜分でもソツとその方へ仕掛けるが好いぢやないか。彼の学術は死生を一にするといふところから、死を畏れず、心剛にして思慮浅く、而も慷慨激烈にして決断が早い、進むことを知つて退くを知らず、成を見て敗を見ず、眼一世を曠うすといふ意気込みで、諸侯の如きは眼中にない、大阪陣以来二百年、今はじめて甲冑を見るに至つたのだ。世上の風聞に、切支丹一件でその亡魂が彼にとり憑いたなぞといふのは愚な沙汰だ。全体、死を決してやつたことを、今更何処へ逃げたものか、合点のゆかぬ話だ。

 この前、江戸の佐藤一斎から俺の処へよこした返事にも、大塩は意必固我なしと思うてゐたが、彼れの著書を見ると、固我の私見たるを免かれ難いといつてあつた。大虚にして無意必固我、良知の発するところ、何うしてこんな事になつたものか。或る人は王陽明は邪説だといつて、大塩を非難するものもあるけれど、邪説とは朱子学派のいふことで、邪悪の義に取つてはいけない、従うて王学の余弊とは言ひ難い、畢竟天魔が天満の隠居にみいつたまでの事だらうよ。

 それについてをかしい事は、膳所の門人で斎藤出雲といふ男が、京も物騒ですから、こちらへ逃げていらつしやい、石山へんの明き寺へでもお世話申すといつて来たが、俺は答へたのさ、親切は難有いが、大塩が逃げて来たところで、京の数十万人みな一様の災難だ、俺一人ぢやない、昔から禍を避けて難に逢ふといふこともあるから、まあ止しにして置かうといつてやつた。

 それから又いろいろ様子を聞くと、徒党のうち十四才の少年――行列書に見える今井太郎といふ者らしい――が捕はれたさうだが、その白状に、成程はじめは甲山へ立籠る計画らしかつたが、何分、合図をして置いた四国へその同志が来なかつたものだから、本謀相違、それで川口から舟で逃げたといふ噂もある。瀬田済之助や渡辺良左衛門なぞは、人相書でお尋ね中だつたが、とうとう郡山領で自滅したらしい。大塩の落し文は、快は快だが、それは下民の快とするところに過ぎない。けれども上たる人の深く誡めなければならないことで、古来かういふ事から、乱のはじめとなるのであるから、役人達は十分これに由つて畏懼の心を生じ、驕奢を戒め、民衆を愛撫することを忘れてはならない。

 ところが、いよいよその実説を聞いてみると、大塩父子は最早自滅したさうで、余党も追々召し捕られたていふことだ。江州小川村藤樹先生の故里に、志村周助といふ医生が彼の門人で、騒動前に招かれて、上阪したが、程なく母と女房と二人へ迎へに来てくれといつてよこしたので、二人は何事が起つたかと、でかけてゆくと、何角といつて大塩は彼に対面させず、そのひまに周助を手討ちにしたといふ騒ぎさ。そこで母と女房は泣きの涙で立帰り、葬式を出さうとすると、大溝侯から差し止められ、二人はそのまゝお預けの身となつた。それから小川の隣村に南市村といふ処は、膳所領だが、村の庄屋も志村の紹介で大塩の門人となつたが、これも大阪へ招かれてゆく途中、ひま取つて伏見の舟場で、あの騒動を聞いたので、びツくりして帰村すると、直ぐ膳所へ召取られて、きびしい糺問を受けたさうだ。

 今度、大塩をかくまつた三よしや五郎兵衛の女房は、大塩方の下女だつたといふ事だ。白井孝右衛門は、先年官の咎めを受けたところが、大塩のおかげで、その罪を免されたからそんな義理で、両親と五人のこどもをふり捨てゝ、加担したとのことだ。岡田半江も大塩の知合だといふので、入牢の身となつた。大井正一郎は二月晦に、京の悲田院の手で召し捕られた。

 瀬川剛司が大阪の篠崎小竹の塾から来ての話に、能勢でも又一騒動がおつ始まつたさうだ。それは篠崎の借家に、山田屋大助といふ薬屋があつたが、大助は能勢の生れで、多田満仲の末孫とかの家柄で、高持の大百姓だつたが、大阪へ出てゐたところが、非常な大塩崇拝で、その遺志を継いで事を起さうと決心し、郷里へ帰つて百姓共をかたらひ、千人余りも徒党を組んで、七月三日の晩から池田、伊丹の金持へ押し寄せて、毀しにかゝつた騒ぎに、大阪から役人出向の上ところの猟師を手先に、鉄砲で打向つたところが、徒党の百姓原一たまりもなく、逃げ散つてしまひ、大将大助は鉄砲腹で自滅したといふのが落ちさ。

 そこで山田屋妻子は入牢、家は欠所になり、家財あらための折から、大塩の落し文の写しが手箱から出たといふので、だんだん吟味になると、それは家主の篠崎さんから借りて、親父が写したといふのさ。それで可哀想に篠崎はお咎めになり、町役から番人が見張つて、寄宿の書生は禁足になつた。瀬川も折ふし主君中津侯の御参府で、大阪御通行と聞いても御目見得も出来ないので、その旨、官へ嘆願に及び、篠崎方からは直接出て往くことが出来ないからと、それで京へ上つて俺の家から伏見へ出るといふ訳だ。半江はその後申し開きが立つて、程なく出牢を許された。大塩の時には、岸和田、郡山、尼ケ崎、高槻、笹山、姫路と、大名衆が加勢を仰付けられて、世の物笑ひとなつたが、今度は能勢の猟師だけで、何の手間ひまもかゝらなかつた。

 天明度にも、白米は二百五十匁に騰つても、米は不足してゐなかつたが、今度も同じく米は無いのではないから困るのは極貧の者ばかりだ。五月晦からは六年ぶりで、祇園町の練り物が出る、四条川原では大すゞみが始まる。それも実は官よりの内意で、世上賑ひの為ぢやげな。こんな事は遊民のよろこぶことで、窮民の身に取つては、さぞ恨めしいことだらう、従つて芝居浄るり、富籤なぞ相変らずの大流行さ。たとへば天明度の時にも、木屋町へんでは、生洲などの繁昌は大したものらしかつたが、それは町中一統粗食をするので、商家の息子や手代どもは、美食にかつえてゐたからだ。近ごろ俺の塾でも粗食をすると、賄料が安いからと、米の高いのを書生共は却つて喜ぶといふやうな訳で、それ丈け小遣銭が浮いてくるのだ。俺は夫婦召仕ひの者までも、粥の薄いやつで我慢してゐるが、塾生の中には、国元から、米高で困るだらう、飯代が高からうといつて、余分に学資を送つて来るものもある様子だ、世はさまざまぢや。

 京もだんだん米高で、麦が驚く勿れ、二百匁にもなつた。それに他国から追ひ追ひ入込んで来る飢民や乞食が、ドシドシ道ばたで倒れるのを、南無地蔵のそばへ掘つた大きな穴へ、昨年来手当り次第に抛り込んだ死骸が、一万余りだといふから、あのへんは臭気であるかれもしないよ。江戸の方では此節だんだん役人の風儀が悪くなり、賄賂は公行といふ調子で、風俗一般に堕落して、白河楽翁公のやうな人が再び出なければならないと、専ら言ひはやしてはゐるけれど、そんな人物は出さうにもなし、この末何うなることかと、恐ろしいやうな気もするぢやないか。

 寺町の鳩居堂は、先年来救荒に心を尽し、京、近在の救民を救うてゐるのは殊勝の至りだ。それで或る寺の境内へ、その建碑をするといふ人もあつたところが、ドツコイ官から差し止めを喰つた、といふのは奉行所からは関東へ、御仁政の為、京地は一人の餓死もないと申してあるからだ。京の人別は去年十万人減つたといふが、それは話し半分にしたところで、全体、我邦の風で、只何事も秘密々々の政道だから、実数は分りやしないのさ、これは西土のやうに、天下戸口の実数を明白に示したなら、警戒の心も起るのであるが、何とも仕様のない訳だ。それで飢饉年に限つて、練物を出させたり、何かして、我が役前をつくろひ、下の困窮を上へ蔽ふやうにするのは、さてさて不忠の至りである。大きな声ではいへないが、京地ばかりか、関東の政道がみんなこの筆法さ。

 それからこゝに死んだ母の手控があるが、天明四年の凶作には、京の相場で、その冬白米が百三十匁、翌五年の四月、将軍家宣下のころには、百五六十匁になり、五月中頃、江戸、大阪その他に騒動が起り、六七月ごろ二百五十匁までも騰つたとしてあるが、ことしは九月に百九十五匁となり、官から厳しい政令があつたので、十月末には一旦三十匁下つたが、十一月に入り、又百九十匁となり、二百匁になつた。来年は又将軍家の宣下で、大名衆の物入りも多からうから、この末の相場が思ひやられる。昔から常平、社倉なぞと、いろいろ手立てもあることだが、今はどこにも、そんな備へは無いのだから、何としても心細い事だ。

 山田屋大助の妻子は、入牢のまゝだが、家主の篠崎は、おかげで毎日牢飯代一貫匁づゝ出してゐるのは気の毒ぢやないか去年七月の初から、けふが日まで、三百六十日、其費用三百六十貫匁、この上牢死でもせぬ日には篠崎の迷惑も察しられる。

 坂本鉉之助は、其働きで、加番の遠藤侯から、当座の褒美に御家伝来の銘刀を賜はり、委細関東へ申し上げられたが、いづれ何とか沙汰のあることだらう。何はともあれ大塩騒動は、誠に天下大乱の発端ぢやあるまいか。返す返すも上下相戒めて、粉飾を避け、治に居て乱を忘れぬ聖人の戒が肝要ぢや、周書に所謂不畏入畏の憂とは、此事ぢや、用心しろしろ。

―― 九、六、一二 ―― 


木崎愛吉『篠崎小竹』 (抄)
中斎逸話」(補遺)


参考文献
『平松楽斎文書 19 猪飼敬所書簡』津市教育委員会 1996


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