Я[大塩の乱 資料館]Я
2001.2.10/2008.4.19修正

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大塩の乱関係論文集目次


『 篠 崎 小 竹 』 (抄)

木崎愛吉 (1865−1944)

玉樹香文房 1924 より

◇禁転載◇

一部改行・省略しています。



     一二 尼ケ崎町の新宅

 小竹は斎藤町の宅に移つてから早十四年目になる、塾運ます\/繁昌するに連れて、五十一歳の天保二年の夏、尼ケ崎町二丁目(今橋五丁目魚の棚の角屋敷、旧大阪倶楽部の筋向ひ)に、宏壮な新宅を普請して、目出たく引移つた。

 三島以来家つきの緑萼梅は、今又この新宅へ移し植られ、西の小窓は涼風を引くによろしく、門塾には三面に窓が開いて、書生の衛生に注意を払ひ、蔵書は土蔵に仕舞ひ込まずに、書斎に積み重ね、『省事』と『清心』との二面の額を打つて、自らの警めとした。

 天保三年九月十七日、山陽の大患を見舞ふベく入京した。瀕死の山陽は、小竹の来訪をよろこんで、『喜聞吾友声力疾咲相迎』と言つたが、程なく二十三日の暮六つ時に、五十三歳を一期として、山陽は長き眠りに入つた。

 同八年の二月、野田笛浦等と同伴、奈良名教館の教授を勤むる旧門人岡菊坪を東道として、月瀬観梅の遊びを試みた。これより先、同二年の春、竹田と両人は山陽に誘はれたが、両人共事故の為めに果さなかつたのを、ことし始めて思ひ立つたのであつたが、この旅行中、大坂は大塩騒動で、船場の宅はいかゞと心配して帰つて見れば、家内は無事であつたのは好いが、こゝに一つ思はぬ災難にかゝつた。

 それは此ういふ訳である。篠崎家の借屋に、山田屋大助といふ生薬屋があつたが、この男はもと能勢の生れで、在所には田地も多分に所持して居つた。大助は元来気慨のある男、大塩平八郎が脆くも敗れたのを心外に思ひ、在所の百姓を語らうて、千人余りの同勢を組立て、七月三日の夜から池田、伊丹辺りを暴れ廻つたので、大坂から役向の人々出張の上、池田猟師に命じ、鉄砲を揃へて打向はしめたから、烏合の衆は忽ち散乱し、首魁の大助も鉄砲腹で自滅して了つた。

 これで騒動は鎮まつたが、在坂の山田屋一類は入牢申附けられ、家内は闕所(没収)になり、家宅捜索の結果、大塩の落し文(檄文)が出たので、何方から手に入れたかと吟味の末、それは家主の篠崎さんから借りて写しましたと、大助の娘が白状したといふので、小竹は寄宿の書生と共に、外出を禁じられた上、山田屋妻子入牢中は毎日牢飯代一貫目づゝ、一年余りも負担させられた。閉門はその年十月初旬に赦免を蒙つたのである。附け加へて置くが、大塩平八郎中斎は、三島にも学んだことのあつた人である。

 小竹が月瀬観梅の事は、右に述べた通りであるが、小竹自身に書いてゐるところを見ると、尾山で早くも『大坂大火』の噂を聞き、その翌日『雨中笠置に着』くと、『奈良の東道主人』の岡菊坪のところから宿屋へ手紙が来て、大坂は大火どころの騒ぎでなく、『兵乱』が始まつたから、『木津より直ちに帰坂は然るべからず』、一旦『南都へ入りて後帰るべしとの事にて、不安心』ながら笠置に『一宿』してゐたところへ、伊賀の上野から藩侯の『御使者』が来合せ、『其人に面会』してみると、藤堂藩の天満邸は二月十九日に丸焼けとなつたといふ話で、それが大塩平八郎の騒動であることが分つたのである。それから『早々南都へ入り、その翌帰宅』したのであつたが、尼ケ崎町の宅は兵火を免がれたが、且那寺の天満東寺町天龍寺などは、焼き払はれたといふのである。それから山田屋大助の能勢一件も小竹自身に書いてゐるのであるが、これは次に掲ぐる二通の手紙でよくその事情が分るのである。

 私は、この二通の手紙を不思議な因縁で写し取つたのであるが、二通ともに『法隆寺遊記』の事が出てゐるのは、疑はしいけれど、それは小谷から重ねて改作したのを送つて来たものらしいと見る外はない。又、後の手紙に猪飼敬所の事を書いてゐるのは、今回の御贈位に、小竹も敬所も同じく贈従五位を賜はつたことの不思議な因縁をも思はしむるのである。宛名の『小谷左金吾』は、号を巣松といひ、津藩の支封伊賀上野の藩儒である。

 弘化元年正月廿八日の夜、尼ケ崎町の宅は火災に罹つた。旧臘廿八日には、江戸の大槻平次磐渓(今回贈従五位)も火事に会つたと聞いたので、小竹一流の諧謔調を一首江戸へ送つた。その詩、

 同四年九月廿三日、孝明天皇御即位の大儀を拝すべく上京した時の記録がある。これは、かの名高い真木和泉の『弘化丁未日記』にある御即位式拝観の文と併せ観るべきものである。


管理人註
*1 「篠崎三島」のことか。


木崎愛吉「猪飼敬所の観た『大塩騒動』
坂本鉉之助「咬菜秘記」その48


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