一部改行・省略しています。
一、緒 論 大坂町人と町儒者 二、家計と養家 三、大坂の学界 四、幼年の教育 五、江戸游学 六、九州游歴 七、再度の江戸行 八、山陽との親交 九、戸 籍 一〇、教育事業 一一、雅遊と施行 一二、尼ケ崎町の新宅 一三、文壇の老将 一四、来訪の諸名士 一五、五 小 楼 一六、識 見 一七、人品嗜好 一八、書 風 一九、終 焉 小竹坐談 附 載 後藤松陰 追 稿 混 沌 社
小竹は斎藤町の宅に移つてから早十四年目になる、塾運ます\/繁昌するに連れて、五十一歳の天保二年の夏、尼ケ崎町二丁目(今橋五丁目魚の棚の角屋敷、旧大阪倶楽部の筋向ひ)に、宏壮な新宅を普請して、目出たく引移つた。
三島以来家つきの緑萼梅は、今又この新宅へ移し植られ、西の小窓は涼風を引くによろしく、門塾には三面に窓が開いて、書生の衛生に注意を払ひ、蔵書は土蔵に仕舞ひ込まずに、書斎に積み重ね、『省事』と『清心』との二面の額を打つて、自らの警めとした。
天保三年九月十七日、山陽の大患を見舞ふベく入京した。瀕死の山陽は、小竹の来訪をよろこんで、『喜聞吾友声力疾咲相迎』と言つたが、程なく二十三日の暮六つ時に、五十三歳を一期として、山陽は長き眠りに入つた。
同八年の二月、野田笛浦等と同伴、奈良名教館の教授を勤むる旧門人岡菊坪を東道として、月瀬観梅の遊びを試みた。これより先、同二年の春、竹田と両人は山陽に誘はれたが、両人共事故の為めに果さなかつたのを、ことし始めて思ひ立つたのであつたが、この旅行中、大坂は大塩騒動で、船場の宅はいかゞと心配して帰つて見れば、家内は無事であつたのは好いが、こゝに一つ思はぬ災難にかゝつた。
それは此ういふ訳である。篠崎家の借屋に、山田屋大助といふ生薬屋があつたが、この男はもと能勢の生れで、在所には田地も多分に所持して居つた。大助は元来気慨のある男、大塩平八郎が脆くも敗れたのを心外に思ひ、在所の百姓を語らうて、千人余りの同勢を組立て、七月三日の夜から池田、伊丹辺りを暴れ廻つたので、大坂から役向の人々出張の上、池田猟師に命じ、鉄砲を揃へて打向はしめたから、烏合の衆は忽ち散乱し、首魁の大助も鉄砲腹で自滅して了つた。
これで騒動は鎮まつたが、在坂の山田屋一類は入牢申附けられ、家内は闕所(没収)になり、家宅捜索の結果、大塩の落し文(檄文)が出たので、何方から手に入れたかと吟味の末、それは家主の篠崎さんから借りて写しましたと、大助の娘が白状したといふので、小竹は寄宿の書生と共に、外出を禁じられた上、山田屋妻子入牢中は毎日牢飯代一貫目づゝ、一年余りも負担させられた。閉門はその年十月初旬に赦免を蒙つたのである。附け加へて置くが、大塩平八郎中斎は、三島にも学んだことのあつた人である。
小竹が月瀬観梅の事は、右に述べた通りであるが、小竹自身に書いてゐるところを見ると、尾山で早くも『大坂大火』の噂を聞き、その翌日『雨中笠置に着』くと、『奈良の東道主人』の岡菊坪のところから宿屋へ手紙が来て、大坂は大火どころの騒ぎでなく、『兵乱』が始まつたから、『木津より直ちに帰坂は然るべからず』、一旦『南都へ入りて後帰るべしとの事にて、不安心』ながら笠置に『一宿』してゐたところへ、伊賀の上野から藩侯の『御使者』が来合せ、『其人に面会』してみると、藤堂藩の天満邸は二月十九日に丸焼けとなつたといふ話で、それが大塩平八郎の騒動であることが分つたのである。それから『早々南都へ入り、その翌帰宅』したのであつたが、尼ケ崎町の宅は兵火を免がれたが、且那寺の天満東寺町天龍寺などは、焼き払はれたといふのである。それから山田屋大助の能勢一件も小竹自身に書いてゐるのであるが、これは次に掲ぐる二通の手紙でよくその事情が分るのである。
本月十四日来簡相達忝拝見仕候。従尾山(月瀬)一絶呈上候処、相届候よしにて、御佳作二首、御垂示被下、忝感吟仕候。於彼地人曰、大坂大火なるべし、燼煤飛来と申て、未審其状。呈詩明日、雨中笠置に着候処、奈良の東道主人より書状到来、兵乱之趣故、木津より直に帰坂は不可然、入南都而後可帰との事にて、不安心に一宿候処、御地より一士人御使者之趣にて、笠置川留にて、夜中逆旅を被叩候故、其人に面会、たづね候処、天満御屋敷(藤堂侯の藩邸は今の天満川崎造幣局に在り)十九日為烏有候よし、問其火則曰、忘其姓名候得共、かねて読書候寄(与)力、近頃売書、少施米候人、乱妨(暴)との事と承り、知為大塩(平八郎)喫一驚、早々入南都、其翌帰宅仕候。如示敞宅辺は免災申候。乍然知友及(祖)先墓之寺(天満東寺町天徳寺)など一切為燼、其上賊首未詳其所在候故、今日に至り、都下未穏候。此人は、先人(長兵衛=三崎先生 *1)之時より相識にて、懇意にいたし候処、近来王(陽明)学とか申事にて、著述之稿も不被示刊行などにて自然に疎遠に推移候処、狂乱如此之甚、其子細者、於今未審候得ども、狂妄二字にて、其外は無之と存候。先年老兄を被訪候よし、定而御驚と奉存候。
○去年者、(摂津)多田湯治中、御過訪被下候由、帰後承り申候。(洛外)東福寺へ御遊被成候よしにて、(日)記一冊御垂示被下、拝見仕候。僕其節は為事故所礙、不能観、其書返し候(ひ)き。法隆(寺)は一游仕候得ども、子昂・朱子之書などは、看不申候(ひ)き。其節之悪作、御慰(に)入覧候。唐人之書は、如来諭一切贋作と御同意に候故、諸方之名跡(筆)も、不欲観候也。御地之董文敏(其昌)三行五絶は、福田屋携来致一覧候、殊之外よろしく相見へ候得ども、如彼幅もの、世間多有之候。当時にも其門人代筆応酬之事、清人随筆にも出有之候故、董蹟も真蹟は無覚束、況於唐宋人乎と存候。右故法隆(寺)悪作も、吾国之古人妙蹟に感服候処を申候也、亦日記中被述候と御同意と奉存候、御笑正可被下候。本文申上候通、諸方より見舞書之返事にも困入候故、不能具悉、猶後音可申候。千万自珍。早速御尋被下候段、御礼奉申上候。恐々謹言。
三月廿二日 篠崎長左衛門
小谷左金吾様
二白。被仰下候通、荒年にて、米価日(に)上り、此節は白米一升弐百四五拾文に相成候而、餓も不少、其上大変にて騒々敷、可憂之至奉存候。尾山にては御地之米廻り候よし、其節百弐三拾文位のよしに承申候、楽邦とも可申。羨敷奉存候。極草々。
御文稿、返上仕候、御落手可被下候。(小谷の書入に、四月朔日着とあり)
(其二)
前月(十一月)八日の華牘相達、拝見仕候、時下追々寒気相添申候、文候益御清適可被成御座奉敬賀候、僕碌々瓦完、御放慮可被下候。然ば岡本生之儀に付、観縷被仰下、承知仕候、天性読書候儀可喜候、何卒御塾にて成業候様と奉存候何必離国遠遊と御申聞可被遣候、業略成緒候節は、江門(戸)なども一遊は可然候得共、当時は(大坂などヘ)遠遊無益と奉存候、況老兄御教育被遣候上は、於本人も無遺憾の事と奉存候。
一、当夏は御細書被下、其後畧御伝聞も被下候哉、借屋のもの、能勢山にて、結徒乱妨(暴)砲死、其家に(大)塩賊檄文写し有之、敞塾にて写取候よし家人申出、其御糺しの時、僕門人より出候を回護候事、発覚、三ケ月ほど閉居被仰付、十月初旬無滞蒙赦候事に御座候。右故何事も棄置、得罪於諸方候事に御座候。法隆寺悪作、御次韵被下、句々精妙、勝於原作、感吟仕候。其節は再和とも存候得共、前文の趣、興味索然、御憐察可被下候。右に付多費多事にて、此節も拮据為生計被累候。老兄山中静閑可羨、此度も御佳作御垂示被下、忝奉存候。近作些録上、御削正可被下候。法隆寺遊記も御示被下、忝奉存候、精敷御覧被成候故、後日の考証にも可相成御作と存じ、一本為写原本返上仕候。僕が同伴のもの俗物にて、午後に到着候故、何もかも走馬観燈之趣にて、何の評論も無之候也。
一、猪飼(敬所)の事、御尋被下、僕も両三年前敞廬へ被訪、一逢仕候。健なる老先生に御座候、学は博き事と承り申候、経説は折中と申事、先は伊藤流と被存候、詩文は不得手と申事、乍然他人の文詞を指摘する事は長じ被申候様、頼子成(山陽)も此儀は感心に候(ひ)き。其他、精敷事は存じ不申候。貴藩へ年々被参、御扶持も賜り候よし、老兄には此先生御周旋(交際といふが如き意味にて、俗にいふ世話する意味にあらず)と奉存侯処、御尋の趣にては、津城へ被参候而、地隔り候故なるべく、其為人は質実なる様に存候、平生、人の著書を駁弁被致候とは、似合ひ不申候。右、御答旁如此、忙中不能具悉、千万諒鑑。
臘月三日 篠崎長左衛門
小谷左金吾様
二白。寒中御保重之段希申候。岡本生よりも来書、別不作答、よろしく御申入可被下候。以上。
私は、この二通の手紙を不思議な因縁で写し取つたのであるが、二通ともに『法隆寺遊記』の事が出てゐるのは、疑はしいけれど、それは小谷から重ねて改作したのを送つて来たものらしいと見る外はない。又、後の手紙に猪飼敬所の事を書いてゐるのは、今回の御贈位に、小竹も敬所も同じく贈従五位を賜はつたことの不思議な因縁をも思はしむるのである。宛名の『小谷左金吾』は、号を巣松といひ、津藩の支封伊賀上野の藩儒である。
弘化元年正月廿八日の夜、尼ケ崎町の宅は火災に罹つた。旧臘廿八日には、江戸の大槻平次磐渓(今回贈従五位)も火事に会つたと聞いたので、小竹一流の諧謔調を一首江戸へ送つた。その詩、
臘末春初二十八
与君先後火災同
伝聞千里相憐意
聊寓二十八字中
同四年九月廿三日、孝明天皇御即位の大儀を拝すべく上京した時の記録がある。これは、かの名高い真木和泉の『弘化丁未日記』にある御即位式拝観の文と併せ観るべきものである。