『旧幕府 3巻8号』(旧幕府雑誌社) 1899.8 より
此日九ッ時過、篠崎小竹悴長平 貞方へ参り申聞候は、
大助娘十三四歳に相成候もの一人有之。夫え役人尋候処、何の弁へも無之、此落し文は篠崎長左衛門より借り写置候旨相答候に付、今朝暁七ツ時より長左衛門御尋にて、是迄平八郎へ入魂に付、若哉 板行の檄文所持申候哉と申事に付、板行は是迄一覽仕候事も無之、写しの落文、実は肥前屋又兵衛と申町家の者より借り申候処、右町家の名前申述候へは、又肥前屋も迷惑に可及と存、頓智にて坂本鉉之助より借り申侯旨答申候得は、其通り一札に相認め印形可致、
尤坂本鉉之助と名前を顕し不申、玉造与力衆よりかり申段相認候様にと役人差図にて、一(其)通相認、今朝の処は相済候得共、万一 町奉行より御尋ねの事も候はヾ、可然答呉候様
跡にて考へ候処、貞が右檄文を所持候て、妄に人に借し(す)抔致す様に町奉行所にて存候半事も如何にて、若 遠藤殿へ噂抔ありて遠藤殿も左様に被存、貞え御尋抔ありてから其実情を申出るも如何なり。
夫よりは為念、先此方より遠藤殿の御含置を申述べしと思ひ、内々かやうの義を篠崎小竹より頼越し、無拠其通に承届遣し置候間、御含置き被下、若 町奉行より噂も出候はゝ可然御答置被下度と申出置候処、遠藤殿、潔白に其子細を直様跡部へ語られ候と見えて、又町奉行より篠崎小竹を呼出して、儒業をも仕居候身分にて、仮初にも上より御尋の筋に取拵候話を申上候とて、御叱五十日計御預に也たり。
是等は貞が余り潔白を存じて所謂馬鹿念と云にて、篠崎へ一端許諾したる事を斯なる可とは思はず、少し念を入可としたるより、再び存外の迷惑をかけて、跡にて甚気毒に存る事なりし。