天保八丁酉の年、中斎先生大塩平八郎が救民の旗影、我浪華城頭に翻へされし より、茲に六十一周年、ことし明治三十丁酉の年、十一月二十八日、浪華有志 きはく の人士相謀りて、先生未死の英魂毅魂を祭らんの挙あり。天保八年は如何なる 年ぞ、窮民の窮其極に達して、餓
路に横はり、流亡相跡いで当路に賑恤の策 なく、徒らに志士仁人の志を痛ましめき、先生が賑恤救助の挙は、常経に背馳 して其跡議すべきありとするも、潮の湧出でたらんが如く、
の烈々たらんが、 如き気勢を以て実行せられ、一世を偸安恬逸の惰眠より呼覚ましぬ、而して一 跌事成らず、靭油掛町(今の靭上通二三丁目辺)の民家に、割腹の屍を焼爛せら れし、志士の末路こう痛ましかりけれ。先生の名は児童走卒も尚之を記す、今 の祭事を挙げんとする、蓋し先生の学風を追慕する人々の間に企てられきと聞 つるも、世情の似通へるふしある、同じ干支の下に此盛挙あらんとするは、何 となく当年旗揚げの昔のおもひやらるゝなり。 『中斎大塩先生霊位』は、茲月茲日、先生歿後六十有一年追悼の法筵たる、大 めぐ 阪天満東寺町成正寺の本堂に安んぜられ、寒篆一縷、緩く梵唄の裡に繞りて、 先生未死の英魂を弔す。 明徳誠行在救民、正心妙用亦同然。誰知天道非耶是。天保丁酉二月天。 もん とは、洗心洞遺弟の唯一人、田能村直入翁が、其八十四齢の涸涙を捫して、莚 きさい 席の上に揮灑したるところ、翁は是日其老躯を以てして遠く京洛より至りて筵 さき に臨めるなり、先生の遺弟
に田結荘千里翁を哭せしかど、尚矍鑠たる斯翁を びゝ つ 見るに及ぶ、往を語り昔を談じて
々竭きず。 書院に展列せられたる先生の遺墨数十品、皆後人をして追撫已む能はざらしむ あ もの、筆、風霜を挟みて、気、鬼神を呵す。先生の心声、これを措きて何くに か求め得べき。 会するもの凡そ四五十名、香資を供するもの二十余名、其人甚だ多からずとす がう る也、而かも其志の篤き、其尊信する所に奉ずるや則ち深し、世の囂々喧々、 徒らに外面の華盛を衒へるものとは、日を同じうして論ずべからず。 加賀の分部某氏は、其考簡斎君(旧大溝藩士)が先生の門下たりしに因みて来り 会し、神戸のクノカヘヱ氏は、遥かに電音を寄せて、専心遥拝の意を致し、北 野の五岳と名のる人は、志ありて筵に列する能はざりしとて、和歌を寄せ来ぬ、 先生遺徳の及ぼせる所此の如く深きものあり。 大塩が蔵書残らず売り払ひ ○○○ それでむほんとなりにけるかな 中島棕隠が例の微言、先生が書を売りて窮を救はんの義に出でたる行径は、千 載の公論に待つあり、而して儒者としての学徳、府吏としての奏績、其欽すべ く慕ふべきを見ずや。 今の追悼の事ある、席上熱涙の士、為に建碑の挙の無かるべからざるを語り合 ひぬ、吾は其浄財四集、年月を出でずして其挙の実行せらるべきを信ず。 大塩家の菩提所たる成正寺(日蓮宗)の門内、墓石二基相並べり、
大塩成余之墓 | 俗名政之丞 文政元年六月二日卒 |
大塩敬高之墓 | 俗名平八郎 寛政十一年五月十一日卒 |
ほうし 成余は先生の祖考、敬高は先生の考とす、先生の実弟『了眠童子』の法謚は、 ふせん 敬高の墓側に附鐫せられたり。 げん あゝ焚余の加刑、遺物の絶滅、彼が如きを以てして、尚家世の墳墓儼として存 するもの此の如く、展列の遺墨に富める、亦此の如く、後人の追慕能く今日の 挙あるを致さしむるもの、豈天道循環の理にあらずや、挙げて先生地下の霊に 答へ、且以て直入翁に質さん。 (丁酉十一月二十八日)