Я[大塩の乱 資料館]Я
2008.4.19

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「大塩中斎追悼会」

木崎愛吉 (好尚、1865−1944)

『返り花』吉岡平助 1899 より

◇禁転載◇

天保八丁酉の年、中斎先生大塩平八郎が救民の旗影、我浪華城頭に翻へされし より、茲に六十一周年、ことし明治三十丁酉の年、十一月二十八日、浪華有志                きはく の人士相謀りて、先生未死の英魂毅魂を祭らんの挙あり。天保八年は如何なる 年ぞ、窮民の窮其極に達して、餓路に横はり、流亡相跡いで当路に賑恤の策 なく、徒らに志士仁人の志を痛ましめき、先生が賑恤救助の挙は、常経に背馳 して其跡議すべきありとするも、潮の湧出でたらんが如く、の烈々たらんが、 如き気勢を以て実行せられ、一世を偸安恬逸の惰眠より呼覚ましぬ、而して一 跌事成らず、靭油掛町(今の靭上通二三丁目辺)の民家に、割腹の屍を焼爛せら れし、志士の末路こう痛ましかりけれ。先生の名は児童走卒も尚之を記す、今 の祭事を挙げんとする、蓋し先生の学風を追慕する人々の間に企てられきと聞 つるも、世情の似通へるふしある、同じ干支の下に此盛挙あらんとするは、何 となく当年旗揚げの昔のおもひやらるゝなり。 『中斎大塩先生霊位』は、茲月茲日、先生歿後六十有一年追悼の法筵たる、大                                めぐ 阪天満東寺町成正寺の本堂に安んぜられ、寒篆一縷、緩く梵唄の裡に繞りて、 先生未死の英魂を弔す。  明徳誠行在救民、正心妙用亦同然。誰知天道非耶是。天保丁酉二月天。                               もん とは、洗心洞遺弟の唯一人、田能村直入翁が、其八十四齢の涸涙を捫して、莚     きさい 席の上に揮灑したるところ、翁は是日其老躯を以てして遠く京洛より至りて筵             さき に臨めるなり、先生の遺弟に田結荘千里翁を哭せしかど、尚矍鑠たる斯翁を                びゝ  見るに及ぶ、往を語り昔を談じて々竭きず。 書院に展列せられたる先生の遺墨数十品、皆後人をして追撫已む能はざらしむ                   もの、筆、風霜を挟みて、気、鬼神を呵す。先生の心声、これを措きて何くに か求め得べき。 会するもの凡そ四五十名、香資を供するもの二十余名、其人甚だ多からずとす                               がう る也、而かも其志の篤き、其尊信する所に奉ずるや則ち深し、世の囂々喧々、 徒らに外面の華盛を衒へるものとは、日を同じうして論ずべからず。 加賀の分部某氏は、其考簡斎君(旧大溝藩士)が先生の門下たりしに因みて来り 会し、神戸のクノカヘヱ氏は、遥かに電音を寄せて、専心遥拝の意を致し、北 野の五岳と名のる人は、志ありて筵に列する能はざりしとて、和歌を寄せ来ぬ、 先生遺徳の及ぼせる所此の如く深きものあり。    大塩が蔵書残らず売り払ひ           ○○○       それでむほんとなりにけるかな 中島棕隠が例の微言、先生が書を売りて窮を救はんの義に出でたる行径は、千 載の公論に待つあり、而して儒者としての学徳、府吏としての奏績、其欽すべ く慕ふべきを見ずや。 今の追悼の事ある、席上熱涙の士、為に建碑の挙の無かるべからざるを語り合 ひぬ、吾は其浄財四集、年月を出でずして其挙の実行せらるべきを信ず。 大塩家の菩提所たる成正寺(日蓮宗)の門内、墓石二基相並べり、

                               ほうし 成余は先生の祖考、敬高は先生の考とす、先生の実弟『了眠童子』の法謚は、       ふせん 敬高の墓側に附鐫せられたり。                               げん あゝ焚余の加刑、遺物の絶滅、彼が如きを以てして、尚家世の墳墓儼として存 するもの此の如く、展列の遺墨に富める、亦此の如く、後人の追慕能く今日の 挙あるを致さしむるもの、豈天道循環の理にあらずや、挙げて先生地下の霊に 答へ、且以て直入翁に質さん。 (丁酉十一月二十八日)


中斎逸話」(補遺)
如来庵「大塩平八郎と諸儒
井上哲次郎「大 塩 中 斎」その31


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