Я[大塩の乱 資料館]Я
2005.1.17

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「大塩の乱関係論文集」目次


『大 塩 平 八 郎 』 その10

幸田成友著(1873〜1954)

東亜堂書房 1910

◇禁転載◇


 第一章 与力
  一 生立 (4)
 改 訂 版


幼名文之助












江戸遊学説








平八郎出仕

平八郎は幼名を文之助といつた、七歳にして父母を失ひ、祖父 母の手に人と成つたといふからには、多少の辛酸を嘗めたであ らうし、激烈峻刻なる性質も或は此間に養はれたのかもしれな い、往来で喧嘩をして居つた丁稚を叱責して立去らしめたとか、 出火の際に代官篠山十兵衛の馬前の高張提灯を打破つたとか、 少年時代に就いて二三の伝説はあるが、確証のないことである から省く、併し江戸遊学説に就いては一言を弁じたい、平八郎 が江戸へ出て林家へ入門したといふ説は割合に弘く信用せられ て居るが、井上博士の言はるゝ通り、江戸へ赴きし歳を或は十 五歳とし、或は二十歳とし、留学の年数を或は三年とし或は五 年とし、諸説一定せずとあるからには、先づ遊学説に就いて疑 を懸くべきが至当である、旧東組与力中島典謨の筆記に祖父豹 三郎の話として、平八郎出仕の始は十三四歳なるべしときして あるのはね単に聞書である故信憑し難いとしても、文化十年出 版の役人録には明に定町廻大塩平八郎と見えてゐる、十年は平 八郎二十一歳の時であるから、彼が二十歳にして東都へ出で、 三五年間は林家に居たといふ説は誤伝としか思へぬ、然らば仮 に十五歳で遊学したとするか、一斎に与ふる書牘附録(八)に僕 年二十を踰えて始めて問学す」とあるのに叶はない、況んや当 初平八郎の師とせし儒は、徒に訓詁詩章を授くるに止り、却て 驕慢放肆の病を助長したるが如しと、彼自ら言へば、之を当時 の大学頭林述斎に宛つることは出来ぬ、書牘中に「祭酒林公も 亦僕を愛する人也」とあるは、後年に至り平八郎と林家との間 に交通があつたからで、恐くは彼が林家の御用金の為に一臂の 労を取つたからであらう、

二 三大功績 上  平八郎は幼名を文之助といつた。七歳にして父、八歳にして 母を失ひ、祖父母の手に人と成つた。幼年の頃は所謂聞かん坊 で能く近隣の子弟を虐めたが、祖母が大学の素読を授けたら悦 んで復誦したといふ。往来で喧嘩をして居た丁稚を叱責して立 去らしめたとか、出火の際に代官篠山十兵衛の馬前の高張提灯 を打破つたとか、少年時代に就いて二三の伝説はあるが、確証 のないことであるから省く。併し江戸遊学説に就いては一言を 弁じたい。  平八郎が江戸へ出て林家へ入門したといふ説は割合に弘く信 用せられて居るが、江戸へ赴いた歳を或は十五歳とし、或は二 十歳とし、留学の年数を或は三年とし、或は五年とし、諸説一 定する所なきを以て見れば、先づ遊学説に就いて疑わ懸くべき が至当である。文化十年出版の大阪袖鑑には大塩政之丞同平八 郎と並んで出てゐる。十年は平八郎二十一歳の時であるから、 彼が二十歳にして東都へ出で、三五年間は林家に居たといふ説 は誤伝としか思へぬ。然らば仮に十五歳で遊学したとするか、 「僕年二十を踰えて始めて問学す」(附録三)とあるのに叶はな い。況んや当初平八郎の師とせし儒は、徒に訓詁詩章を授くる に止まり、却つて驕慢放肆の病を助長したるが如しと、彼自ら 言へば、之を当時の大学頭林述斎に宛てることは思ひも寄らぬ。 「祭酒林公も僕を愛する人也」とあるのは、後年に至り林家と 彼との間に交通があつたからで、恐らくは彼が林家の御用金の 為に一臂の労を取つたからであらう。


「大塩平八郎」目次/ その9/その11

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