幼名文之助
江戸遊学説
平八郎出仕
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平八郎は幼名を文之助といつた、七歳にして父母を失ひ、祖父
母の手に人と成つたといふからには、多少の辛酸を嘗めたであ
らうし、激烈峻刻なる性質も或は此間に養はれたのかもしれな
い、往来で喧嘩をして居つた丁稚を叱責して立去らしめたとか、
出火の際に代官篠山十兵衛の馬前の高張提灯を打破つたとか、
少年時代に就いて二三の伝説はあるが、確証のないことである
から省く、併し江戸遊学説に就いては一言を弁じたい、平八郎
が江戸へ出て林家へ入門したといふ説は割合に弘く信用せられ
て居るが、井上博士の言はるゝ通り、江戸へ赴きし歳を或は十
五歳とし、或は二十歳とし、留学の年数を或は三年とし或は五
年とし、諸説一定せずとあるからには、先づ遊学説に就いて疑
を懸くべきが至当である、旧東組与力中島典謨の筆記に祖父豹
三郎の話として、平八郎出仕の始は十三四歳なるべしときして
あるのはね単に聞書である故信憑し難いとしても、文化十年出
版の役人録には明に定町廻大塩平八郎と見えてゐる、十年は平
八郎二十一歳の時であるから、彼が二十歳にして東都へ出で、
三五年間は林家に居たといふ説は誤伝としか思へぬ、然らば仮
に十五歳で遊学したとするか、一斎に与ふる書牘附録(八)に僕
年二十を踰えて始めて問学す」とあるのに叶はない、況んや当
初平八郎の師とせし儒は、徒に訓詁詩章を授くるに止り、却て
驕慢放肆の病を助長したるが如しと、彼自ら言へば、之を当時
の大学頭林述斎に宛つることは出来ぬ、書牘中に「祭酒林公も
亦僕を愛する人也」とあるは、後年に至り平八郎と林家との間
に交通があつたからで、恐くは彼が林家の御用金の為に一臂の
労を取つたからであらう、
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二 三大功績 上
平八郎は幼名を文之助といつた。七歳にして父、八歳にして
母を失ひ、祖父母の手に人と成つた。幼年の頃は所謂聞かん坊
で能く近隣の子弟を虐めたが、祖母が大学の素読を授けたら悦
んで復誦したといふ。往来で喧嘩をして居た丁稚を叱責して立
去らしめたとか、出火の際に代官篠山十兵衛の馬前の高張提灯
を打破つたとか、少年時代に就いて二三の伝説はあるが、確証
のないことであるから省く。併し江戸遊学説に就いては一言を
弁じたい。
平八郎が江戸へ出て林家へ入門したといふ説は割合に弘く信
用せられて居るが、江戸へ赴いた歳を或は十五歳とし、或は二
十歳とし、留学の年数を或は三年とし、或は五年とし、諸説一
定する所なきを以て見れば、先づ遊学説に就いて疑わ懸くべき
が至当である。文化十年出版の大阪袖鑑には大塩政之丞同平八
郎と並んで出てゐる。十年は平八郎二十一歳の時であるから、
彼が二十歳にして東都へ出で、三五年間は林家に居たといふ説
は誤伝としか思へぬ。然らば仮に十五歳で遊学したとするか、
「僕年二十を踰えて始めて問学す」(附録三)とあるのに叶はな
い。況んや当初平八郎の師とせし儒は、徒に訓詁詩章を授くる
に止まり、却つて驕慢放肆の病を助長したるが如しと、彼自ら
言へば、之を当時の大学頭林述斎に宛てることは思ひも寄らぬ。
「祭酒林公も僕を愛する人也」とあるのは、後年に至り林家と
彼との間に交通があつたからで、恐らくは彼が林家の御用金の
為に一臂の労を取つたからであらう。
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