Я[大塩の乱 資料館]Я
2005.1.18

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「大塩の乱関係論文集」目次


『大 塩 平 八 郎 』 その11

幸田成友著(1873〜1954)

東亜堂書房 1910

◇禁転載◇


明らかに誤植と思われるものは訂正しています。

 第一章 与力
  一 生立 (5)
 再 版


御番方見習





定町廻





兵庫西宮勤
番

与力の長男は十五歳になると御番方見習といつて役所へ出勤し、 其後は技倆次第で相応の役付をするのが通例で、之から考える と祖父政之丞が老年であるため、平八郎は十三四歳で既に見習 と為つたかと思はれる、中島氏の聞書は聞書とはいへ、充分信 用する価値があり、従つて遊学説は極めて怪しい、既に遊学説 が怪しいとすれば、北新地の妓楼で遊宴中にに不意に江戸へ上 つたとか、江戸に赴く途中鈴鹿山で盗賊を懲らしたとか、林家 入塾中悪友に誘はれ吉原松葉楼に遊び、一同無銭の為平八郎一 人奴質にとられ、三日目に漸く帰塾し、百韻の詩稿を出して林 祭酒に呈したとかいふ話は、一切抹殺せねばならぬのである、 但し文化十年版の役人鑑に平八郎の名があつて、同十三年役人 鑑に其名の見えぬは一見不可思議の様であるが、定町廻は真の 役付でない、真の役付は闕所役以上であるから、縦令平八郎の 名が一旦役人鑑から消失せても敢て差支は無いのである、彼が 兵庫西宮の勤番附録(二)(三)に往つたは何年のことか不明であ るが、両地の勤番は大低若輩の為る仕事故、多分は文化の末頃 であつたらう。

    有男児家、五月五日、盛植旌旗于門、是邦俗也、 竊考其所以、蓋為父母者、私説其子、為彦聖、 而登高貴之位、建旌旗之飾、出于其門之意也、 然而熟視札古今、雖有僥倖得志者、而為彦聖者 幾希、不為彦聖而得志者、車服旌旗之美、不称 其徳、故君子不取也、況乎無能而与螻蟻雀鼠倶 尽者、非顕肖父母之初志而何也、固為子者之罪 也、然而父母徒知私祝之、而不知数導之、故往 々俾陥于匪人如此、然則亦可不請父母無過乎、 此日五日也、又看各門旌旗之翻、賦絶句、以示 塾童、戒慎恐懼、又為父母者、宜懲創、 旌旗亦是桑蓬意、不暗誦天下英試看成童弱冠後、 半為鸚鵡半猩々        (洗心洞詩文)

御番方見習 一体与力の長男は十五歳になると御番方見習といつて役所に出 勤し、その後は技倆次第で相応の役付をするのが通例である。 旧東組与力の中島典謨の筆記に、祖父豹三郎の話として、平八 郎出仕の始は十三四歳なるべしとあるのは、祖父政之丞が老年 であるだけ、甚だ道理らしく思はれるが、文化四年版の大阪袖 鑑には政之丞一人、同年八月の御役録に至り始めて政之丞文之 助と並んでゐる。文之助は平八郎の幼名でこの時彼は十五歳で ある。さうして七、八、九年はまた政之丞一人名前となつて居 る。然し御役録に名前が見えぬからといつて、直ちに留学説を 肯定する訳には行かない。留学説が肯定されない以上、北新地 の妓楼で遊宴中に不意に江戸へ上つたとか、江戸に赴く途中鈴 鹿山で盗賊を懲らしたとか、林家入塾中悪友に誘はれて吉原松 葉楼に遊び、一同無銭の為平八郎一人奴質にとられ、三日目に 漸く帰塾し、百韻の詩稿を出して林祭酒に呈したとかいふ話は、 一切抹殺せねばならぬのである。 兵庫西ノ宮勤番  平八郎が兵庫及び西ノ宮の勤番に往つたは何年のことか不明 であるが、両地の勤番は大低若輩の為る仕事故、多分は文化の 末頃であつたらう。

  


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