与力の長男は十五歳になると御番方見習といつて役所へ出勤し、
其後は技倆次第で相応の役付をするのが通例で、之から考える
と祖父政之丞が老年であるため、平八郎は十三四歳で既に見習
と為つたかと思はれる、中島氏の聞書は聞書とはいへ、充分信
用する価値があり、従つて遊学説は極めて怪しい、既に遊学説
が怪しいとすれば、北新地の妓楼で遊宴中にに不意に江戸へ上
つたとか、江戸に赴く途中鈴鹿山で盗賊を懲らしたとか、林家
入塾中悪友に誘はれ吉原松葉楼に遊び、一同無銭の為平八郎一
人奴質にとられ、三日目に漸く帰塾し、百韻の詩稿を出して林
祭酒に呈したとかいふ話は、一切抹殺せねばならぬのである、
但し文化十年版の役人鑑に平八郎の名があつて、同十三年役人
鑑に其名の見えぬは一見不可思議の様であるが、定町廻は真の
役付でない、真の役付は闕所役以上であるから、縦令平八郎の
名が一旦役人鑑から消失せても敢て差支は無いのである、彼が
兵庫西宮の勤番附録(二)(三)に往つたは何年のことか不明であ
るが、両地の勤番は大低若輩の為る仕事故、多分は文化の末頃
であつたらう。
有男児家、五月五日、盛植旌旗于門、是邦俗也、
竊考其所以、蓋為父母者、私説其子、為彦聖、
而登高貴之位、建旌旗之飾、出于其門之意也、
然而熟視札古今、雖有僥倖得志者、而為彦聖者
幾希、不為彦聖而得志者、車服旌旗之美、不称
其徳、故君子不取也、況乎無能而与螻蟻雀鼠倶
尽者、非顕肖父母之初志而何也、固為子者之罪
也、然而父母徒知私祝之、而不知数導之、故往
々俾陥于匪人如此、然則亦可不請父母無過乎、
此日五日也、又看各門旌旗之翻、賦絶句、以示
塾童、戒慎恐懼、又為父母者、宜懲創、
旌旗亦是桑蓬意、不暗誦天下英試看成童弱冠後、
半為鸚鵡半猩々 (洗心洞詩文)
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御番方見習
一体与力の長男は十五歳になると御番方見習といつて役所に出
勤し、その後は技倆次第で相応の役付をするのが通例である。
旧東組与力の中島典謨の筆記に、祖父豹三郎の話として、平八
郎出仕の始は十三四歳なるべしとあるのは、祖父政之丞が老年
であるだけ、甚だ道理らしく思はれるが、文化四年版の大阪袖
鑑には政之丞一人、同年八月の御役録に至り始めて政之丞文之
助と並んでゐる。文之助は平八郎の幼名でこの時彼は十五歳で
ある。さうして七、八、九年はまた政之丞一人名前となつて居
る。然し御役録に名前が見えぬからといつて、直ちに留学説を
肯定する訳には行かない。留学説が肯定されない以上、北新地
の妓楼で遊宴中に不意に江戸へ上つたとか、江戸に赴く途中鈴
鹿山で盗賊を懲らしたとか、林家入塾中悪友に誘はれて吉原松
葉楼に遊び、一同無銭の為平八郎一人奴質にとられ、三日目に
漸く帰塾し、百韻の詩稿を出して林祭酒に呈したとかいふ話は、
一切抹殺せねばならぬのである。
兵庫西ノ宮勤番
平八郎が兵庫及び西ノ宮の勤番に往つたは何年のことか不明
であるが、両地の勤番は大低若輩の為る仕事故、多分は文化の
末頃であつたらう。
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