Я[大塩の乱 資料館]Я
2005.1.16

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「大塩の乱関係論文集」目次


『大 塩 平 八 郎 』 その9

幸田成友著(1873〜1954)

東亜堂書房 1910

◇禁転載◇


 第一章 与力
  一 生立 (3)
 改 訂 版



養子説







疑問第一








疑問第二



















其解決






















忠之丞

平八郎は敬高の実子である、然るに平八郎を養子だといふ説が あつて、井上博士も之を探つて居られる、其説によると、平八 郎は徳島藩家老稲田九郎兵衛の臣真鍋市郎なる者の二男で、美 馬郡脇町に生れ、母の縁故によつて一旦大阪の人塩田喜左衛門 に養はれ、其後また大塩氏に養はれたのであるといふが、一向 に信じられぬ、天満与力中に養子を為ることは往々にしてある が、大抵同僚の二三男を迎へる、現に平八郎の養子格之助は東 組与力西田青太の実弟である、縦令同僚の二三男を迎へぬにし ろ蜂須賀如き外様諸侯の臣下と縁組することは滅多に無いので あるから、養子説はまづ疑問を付けて宜い、次に平八郎が一斎 に与へた書牘(附録八)を見ると、「僕の志三変あり、年十五 嘗て家譜を読む、祖先は即ち今川うじの臣にして其族なり」云 々といひ、波右衛門の略歴及其二子が一は家を継ぎて今に至り、 一は天満与力と為れる次第を述べ、「これ即ち我祖なり、僕是 に於てか慨然として深く刀筆に従事し、獄吏市吏に伍するを以 て耻と為す、其時の志は則ち功名気節を以て祖先の志を継がん と欲し、居恒鬱々として楽しまざるの情、実に劉仲晦未だ志を 得ざる時の念と亦僕奚ぞ異ならん、器比すべしと謂ふにあらず、 而して父母七歳の時倶に歿す、故に早く祖父の職を承けざるを 得ざるなり」とある、養家の祖先の履歴を見て発憤志を起てた としては此文章は解き悪い、養子説には第二の疑問を付けて宜 い、旧東組与力関根一郷氏の愛蔵に平八郎が同僚荻野四郎助に 与へた長文の手紙附録(一五)がある、年月宛名署名は無いが、 之は乱後憚る所あつて断捨てたのだといふ、本文中に「先宿願 の通三年已前御暇乞退身仕候」とあるが、平八郎の退隠は天保 元年であるから、此手紙は同三年のののもので、巻首の写真版 は本文の一節「しかし御暇受候共、素々神君様御馬先ニおいて 功名仕、御手つから御弓拝領仕候大塩波右衛門血当の僕ニ付、 下賎なから君臣之名分者一生難離」とあることを証し得る、尚 一証を挙げると、天満東寺町成正寺に平八郎が建てた父祖の石 碑附録(一)があつて、祖父成余の墓には嫡孫平八郎是碑を建 つとあり、又父敬高の墓には天保六歳次乙未冬長子源後素之を 誌すとあるから、平八郎が大塩家の血統であることは、最早疑 を容るべき余地が無いのである、平八郎に忠之丞といふ弟があ つて、父母逝去の翌年即ち寛政十二年七月廿五日、僅に二歳に して歿したことは、敬高の墓石の左側に刻んである誌銘によつ て明白であるが、在来の伝記に絶えて見えぬ故附記して置く。

後素養子説の誤謬
政之丞養子説
 以上成正寺及び連興寺にある大塩家の基碑や過去帳により、 自分は大塩家が政之丞以来三代嫡々相承けたことを確信し、従 来一部の人々によつて唱へられた平八郎後素養子説を否定した。 然るに近年に至り、政之丞成余養子説が起り、新旧両説とも養 子となつた人物は、徳島藩家老稲田九郎兵衛の臣真鍋市郎なる 者の二男で、美馬郡脇町に生れ、三歳の時母を喪ひ、亡母の縁 故によつて大阪の親戚塩田喜左衛門に養はれ、その後また大塩 助左衛門に養はれたといふ。天満与力が養子をする場合、同僚 の二、三男を迎へるのが普通で、京都や堺の与力の家から迎へ た例もあるが、蜂須賀家のやうな外様諸侯の臣下の子弟を迎へ るのは異例と考へられるので、慣重調査の必要がある。 三宅氏過去帳  第一、同一人が後素になつたり、後素の祖父になつたりする やうでは、養子説の根本となる林料に暖味不明瞭の点があつて、 見る人が解釈を異にしたに相違ない。自分は養子説を主張する 人々が引用する三宅氏過去帳の一葉を見て、その感を深くした。 過去帳に記載する所左の通り、

 文政三寅年六月二日    行年六十八歳
曜山院誠意日凉居士    真鍋市郎様弟
 大坂天満与力大塩政之丞  孝子大塩平八郎
過去帳記事の誤謬 この一葉は真鍋市郎の長女を娶れる三宅小一郎が平八郎後素に 依頼して書いて貰つたものを写したといふが、政之丞の戒名は 山院でなくて耀山院でおり、彼の歿年は文政寅年でなくて 文政寅年であり、またその享年は六十歳でなくて六十歳 である。真鍋市郎様弟も甚だ不審だ。養子説では市郎次男とい ふでは無いか。一つ紙片に一方には通俗流に市郎弟と書き、 他方には漢文流に孝子大塩平八郎とあるのも不釣合では無いか。 平八郎が亡祖父のために建てた墓碣塔婆の類なら、孝子とかく も宜からうが、亡祖父の法号・俗名・歿日・享年を人に示すに 孝子は入らぬこと、大塩平八郎といふ氏名も除いて可なりだ。 平八郎が文政とあるべきをと誤り、次男とあるべきをと 誤り、六十歳とあるべきを六十歳と誤つたか。或はそれを 書写した人の誤か。仮に後者としても三宅家でその誤写を看過 した理由が分らない。過去帳は年忌法事を営むためでは無いか。  養子説の根本材料は此の如く不充分である。大塩家と三宅家 との間に何等か深い関係のあることは認められても、誤謬の多 い過去帳の記事だけでは政之丞養子説を成立せしむるに不充分 である。塩田喜左衛門と大塩助左衛門との関係でも委しく分れ ば養子説の参考にもならうが、生憎それも一向説明されて居ら ぬ。 先祖波右衛門の血統なりと云ふ後素の手記  第二、養子説と反対に平八郎後素は先祖波右衛門の血統を伝 へてゐることを一度ならず自負してゐる。文政九年平八郎が養 子の件につき、名古屋の宗家大塩氏に寄せた手紙に、「元租波 右衛門様より当私まで血統相続仕候に、一旦勢利に被劫、不筋 之利慾に迷ひ、他家之者を継子致候ては断絶も同様之仕義、甚 歎敷候」といひ、また天保三年同僚荻野四郎助に与へた長文の 手紙(附録四)の一節に、「しかし御暇受け候共、素々神君様 御馬先におゐて功名仕、御手づから御弓拝領仕候大塩波右衛門 血当(統)之僕ニ付、下賎ながら君臣之名分は一生難離」とあ る。今日の考からいへば女統でも血を引くといへやうが、血統 を喧しくいふ封建時代は男統を重んじたのである。男統で代々 相続したればこそ、平八郎は自分の家筋を誇つたものと解釈せ られる。若し自分の解釈が正しいなら、政之之丞養子説は当然 廃棄せられねばならぬ。 大阪大塩家の歴代  大阪大塩家の初代は大塩波右衛門の季子とあるが、名前が判 然せぬのみか、与力となつたのが何時であるかも分らぬ。平八 郎の伯父に当る浅井中倫の文章に元和年間とあるが、季子の名 さへ挙げないので、年号だけを信用することは躊躇する。大阪 では元禄年間に公私要覧と題する横本の小冊子が出版せられ、 東西両組の与力の名が載つてゐるが、その中に大塩波右衛門な るものがある。波右衛門といふ先租の通称は名古屋の本家で嗣 ぎさうなものだと思ふが、どういふ仔細で大阪の分家で波右衛 門を称へたか不明。宝永版の公私要覧にも矢張波右衛門が居る から、この人は先づ元禄宝永時代の人と見て宜い。それから享 保・元文・寛保・延享時代の大阪袖鑑には大塩喜内の名が見え る。大阪袖鑑は公私要覧同様横本の小冊子で大阪の武鑑ともい ふべきものだ。次ぎに年々春秋出版両面摺一枚の浪華御役録を 見ると、宝暦十二年及び明和二年の分に大塩助左衛門同政之丞 と一欄に父子の名が並んで載せてある。文政元年七月平八郎が 再建した大塩家の墓碑(浜村墓地)によると、喜内は我が高租 法号春岳院清空、寛延二年三月廿九日歿す。助左衛門はその弟 法号本覚院不二日性、安永二年六月廿六日歿すとある。これで 喜内と助左衛門とが兄弟であつたことは分るが、助左衛門と政 之丞とが実の父子であるか、義理の父子であるか、「耀山は我 が祖父政之丞」とあるばかりだ。明和の末から安永を通じて政 之丞一名が御役録に見えるが、天明四年には大塩政之丞同儀一 郎、五年には大塩政之丞同平八郎と並んで見える。この平八郎 が平八郎敬高であることは疑ひないが、儀一郎は何人であるか、 未詳。以上大塩氏の家系については浜村栄三郎氏の援助による 所が多い。   大塩成余之墓  祖考俗名政之丞、諱云云、文政元年戊寅夏六月二日卒、  亨年六十有余、嫡孫平八郎建是碑   大塩敬高之墓  家君諱云云、俗名平八郎、寛政十有一年己未夏五月十有  一日卒、享年僅三十、嘗葬焉、旧碑為火災焼燬、因再製  碑云、天保六歳次乙未冬十二月、長子源後素誌之、    右二碑は大阪市北区末広町(字天満東寺町)成正寺    本堂前に南面して建てり。


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