Я[大塩の乱 資料館]Я
2006.5.5

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「大塩の乱関係論文集」目次


『大 塩 平 八 郎 』 その101

幸田成友著(1873〜1954)

東亜堂書房 1910

◇禁転載◇


 第三章 乱魁
  一 決心 (5)
 改 訂 版


輸出米額及
酒造額の制
限





















江戸廻米

右の如き米価騰貴故、町奉行は他所輸出米に制限を加へ、毎日の輸 出米額を堺五拾石乃至六拾石・伏見四拾石・京都五百二拾石に限り、 毎月の輸出米額を天王寺南北平野町を含む二百八拾石・難波村八拾                 コツマ 石・木津村四拾石・今宮村二拾石・勝間村九拾石・穢多村百五拾石・ 住吉安立町新家を含む六拾石・八尾二拾石・平野百五拾石に限り、 又酒造額を株石高の六分一とした、之を天保四五年に比するに、酒 造額の制限は同一であるが、輸出米額の制限は一層巌しく、一箇所 に就き拾石乃至数拾石の滅額であるので、京伏見は申すに及ばず三 郷接続町村の人民に至るまで、いづれも飯米に差支へ、内密に五升 一斗の米を大阪へ買に来る、それを町奉行所で捕縛したから、平八 郎は痛く慣漑し、「言語道断」の仕業と罵つてゐる、輸出米の制限 も酒造額の制限も、詮ずる所大阪在米の潤沢を計る手段であるから 宜いとしても、此際跡部山城守が、江戸廻米に尽力した一條は、看 過すべからざるものがある、凶年に際して在米の欠乏するのは大阪 のみでなく、江戸も其通で、既に天保四年の冬には、大阪廻米額中 三分を江戸に送り、残七分を大阪にて売払へといふ幕命があつたが、 翌春町奉行所から諸家蔵屋敷に達した書面によると、三歩通江戸廻 米令は強いて之に拘泥せざるも可なる旨、幕府より内命あつたれば、 蔵米は申すまでもなく、領内百姓町人の所有米と雖も、余分の石高 は大阪に廻送ありたしといひ、諸家も亦其誠意を領し、七月二十日 以後約七十日間に於て、加州及其外二十五藩の大阪廻米額、合計五 万三千五百二拾八石九斗余と三千八百拾俵に乃んだとある、幕府が 三分通江戸廻米令を内々撤回したのは、果して矢部駿河守戸塚肥前 守の建言によるか、史料に乏しくして明確なる解釈を与ふることは 出来ぬが、多分は其様な次第であつたらう、然るに天保七年幕府よ り江戸廻米の命あるや、跡部山城守は一議に及ばず旨を承り、密に 之を与力内山彦次郎に命じ、彦次郎は兵庫に赴き、同地の豪商北風 荘右衛門と計り、種々勘弁差略を以て買上米を為し、米柄見分の上 直に江戸に廻送した、と同人自筆の勤功書にある、一方には五升一 斗の小買に来阪する者共を用捨なく捕縛しながら、一方には大阪附 近で買上米を為すとは甚しき矛盾で、町奉行に誠意なければ蔵屋敷 役人も亦自ら誠意を闕き、大阪以外に蔵米を陸揚して、売捌いたら          ナダメ しく、西宮以西俗に灘目といふ地方では、実際米問屋類似の業を営 んだ者があつたといふことだ。

 右の如き米価騰貴故、町奉行は他所輸出米に制限を加へ、毎日の 輸出米額を堺五拾石乃至六拾石、伏見四拾石、京都五百二拾石に限 り、毎月の輸出米額を天王寺南北平野町を含む二百八拾石、難波村                   コツマ 八拾石、木津村四拾石、今宮村二拾石、勝間村九拾石、穢多村百五 拾石、住吉安立町新家を含む六拾石、八尾二拾石、平野百五拾石に 限り、また酒造額を株石高の六分一とした。之を天保四、五年に比 するに、酒造額の制限は同一であるが、輸出米額の制限は一層巌し く、一箇所に就き拾石乃至数拾石の滅額であるので、京伏見は申す に及ばず三郷接続町村の人民に至るまで、いづれも飯米に差支へ、 密に五升一斗の米を大阪へ買入に来る。それを町奉行所で捕縛した から、平八郎は痛く慣漑し、「言語道断」の仕業と罵つてゐる。輸 出米の制限も酒造額の制限も、詮ずる所大阪在米の潤沢を計る手段 であるから可いが、時の東町奉行跡部山城守が、江戸廻米に尽力し た一條は、大阪在米の潤沢と全く矛盾した処置といはざるを得ぬ。 平八郎の第一の不平はこゝにあつた。  凶年に際して在米の欠乏するのは大阪のみでなく、江戸も同様で、 既に天保四年の冬幕府は諸家に対し、大阪廻米額中三分を江戸に送 り、残七分を大阪にて売払ふべしと令したが、翌春町奉行所から諸 家蔵屋敷に達した書面によると、三分通江戸廻米令は強ひて之に拘 泥せざるも可なる旨、幕府より内命ありたるにより、蔵米は申すま でもなく、領内百姓町人の所有米と雖も、余分の石高は大阪に廻送 ありたしといひ、諸家も亦その意を領し、七月二十日以後約七十日 間において、加州及びその外二十五藩の大阪廻米額、合計五万三千 五百二拾八石九斗余と三千八百拾俵に達したとある。幕府が三分通 江戸廻米令を内々撤回したのは、果して大阪町奉行矢部駿河守同戸 塚山城守の建言によるか、史料に乏しくして充分な解釈を与ふるこ とは出来ぬが、多分は左様な次第であつたらう。然るに天保七年幕 府より江戸廻米の命あるや、跡部山城守は一議に及ばず旨を奉じ、 自分は東町奉行でありながら、密に之を西組与力内山彦次郎に命じ、 同人は兵庫に赴き、同地の豪商北風荘右衛門と計り、種々勘弁差略 を以て買上米を為し、米柄見分の上直に江戸に廻送したと、同人自 筆の勤功書にある。一方には五升一斗の小買に来阪する者共を用捨 なく捕縛しながら、他方には大阪附近で買上米を為すとは甚しき矛 盾で、かやうに上に立つ町奉行に確乎たる態度が無いため、諸家の 蔵屋敷役人も亦自ら誠意を闕き、射利を目的として大阪以外に蔵米                 ナダメ を陸揚したらしく、西ノ宮以西俗に灘目といふ地方で、実際米問屋 類似の業を営んだ者があつたといふことだ。


「大塩平八郎」目次3/ その100/その102

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