天保四年の
飢饉
天保七年の
飢饉
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天保四年秋から翌五年へ懸けての米価は最高二百目に上り、市民は
大根飯・豆飯・芋飯の類を喰ひ、粮米焚方伝救民安逸伝といつたや
うな、廉価で口腹を充たす法を書いた小冊子は続々として出版せら
れ、質屋は流質のみ多く、而も古着の売先全く止りたる為、廃業す
る位であつた、当時西町奉行矢部駿河守定謙東町奉行戸塚備前守忠
栄両人力を合せて前掲の諸手段を講じ、平野屋五兵衛・鴻池屋善右
衛門・加島屋久右衛門等亦莫大の金米を寄捨し、幸に難場を凌いで
五年秋の豊作を迎へるに至つた、「やべうれし、駿河の富士の、山
よりも、名は高うなる、米は安うなる」との落首は、能く市民感謝
の念を表してゐる、然るに七年夏大雨屡々下りしため本年の米作不
凶との見込立ち、米価は六月下旬に既に百目台を抜き、日を追うて
騰貴して来た、町奉行所からは堂島市場に令を下し、糴買又は買占
囲持によつて騰貴の勢を助長してはならぬ、。買占囲持は禁ずるけ
れど、蔵米の入札を躊躇して廻米を他所に入津せしめてはならぬ、
サシフダ
搗米屋は必ず小売相場を差札に明記し、不当の利益を貪つてはなら
ぬと、五月蠅い程に申達しても、新穀入津期に至り、廻米額は例年
に比して遥に劣り、素人と言はず黒人と言はず、申合したやうに買
占にかゝるので、米価は愈々騰貴し、十一月には百五拾目を越え、
年末には小売相場白米一升二百文・白麦百五拾二文・大豆百二拾四
文・酒一升二百八拾文・油一升五百八拾文となり、人々相会へば談
話は必ず食物の事であつたとしふ。
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天保四年秋から翌五年へ懸けての米価は最高二百目に上り、市民
は大根飯・豆飯・芋飯の類を喰ひ、粮米焚方伝救民安逸伝といつた
やうな、廉価で口腹を充たす法を書いた小冊子は続々として出版せ
られ、質屋は流質のみ多く、而も古着の売先全く止まりたる為、廃
業する位であつた。当時西町奉行矢部駿河守定謙東町奉行戸塚備前
守忠栄両人力を合せて前掲の諸手段を講じ、平野屋五兵衛・鴻池屋
善右衛門・加島屋久右衛門等亦莫大の金米を寄捨し、幸に難場を凌
いで五年秋の豊作を迎へるに至つた。「やべうれし、駿河の富士の、
山よりも、名は高うなる、米は安うなる」との落首は、能く市民感
謝の念を表してゐる。然るに七年夏大雨屡々下りしため、本年の米
作不凶との見込立ち、米価は六月下旬に既に百目台を抜き、日を追
うて騰貴して来た。町奉行所からは堂島市場に令を下し、糴糶買又
は買占囲持によつて騰貴の勢を助長してはならぬ。買占囲持は禁ず
るけれども、蔵米の入札を躊躇して廻米を他所に入津せしめてはな
サシフダ
らぬ。搗米屋は必ず小売相場を差札に明記し、不当の利益を貪つて
はならぬと、五月蠅い程に申達しても、新穀入津期に至り、廻米額
は例年に比して遥に劣り、素人と言はず玄人と言はず、申合したや
うに買占にかゝるので、米価は愈々騰貴し、十一月には百五拾目を
越え、年末には小売相場白米一升二百文、白麦百五拾二文、大豆百
二拾四文、酒一升二百八拾文、油一升五百八拾文となり、人々相会
へば談話は必ず食物の事であつた。
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