Я[大塩の乱 資料館]Я
2006.5.23

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「大塩の乱関係論文集」目次


『大 塩 平 八 郎 』 その104

幸田成友著(1873〜1954)

東亜堂書房 1910

◇禁転載◇


 第三章 乱魁
  一 決心 (8)
 改 訂 版


東組与力同
心の不平

評定所の吟味書類を見ると、平八郎の旧同僚に対する同情も亦挙 兵の遠因であつたらしい、之は絶えて他書に見えぬことであるが、 毛頭疑なき事実である、元来大阪の町奉行所は東西に分れ、東町 奉行所は今の偕行杜の西手に、西町奉行所は今の博物場に位し、 町奉行は隔月に月番となつて政務を視る、然るに東町奉行は高井 山城守以来曾根日向守・戸塚備前守・大久保讃岐守と、代代の町 奉行いづれも在職満二年ならずして交替するので、かやうに交替 の頻繁なのは、幕府に対し東町奉行の御覚目出度からざるに基き、 東町奉行の御覚目出度からざるは、西組与力同心の所為に基くの であらうといふ風説は、一般に東組与力同心の間に行れ、平八郎 に於ても、隠退の身とは申しながら残念に存ずると、平山助次郎 に語つたとある、それから天保七年三月跡部山城守が新に東町奉 行と為つた時、又もや一の風説が行れた、それは組与力同心の風 儀宜しからず、動向未熱又は自己の存寄のみ申募り、一向町奉行 の命に順はざる者あり、この儘見遁しては奉行の役前にも関係す る次第故、取調の上外組与力同心へ組替を命じ、御用向は西組与 力より助役することに致さば宜しからんなどと、両奉行で内談が あつた、前々の奉行の役替は公辺不首尾の故でありながら、何か 組の者が用に立たぬからの様に新町奉行が言はれたとの風説で、 組内は勿論平八部も少からず憤慨してゐた所、九月西町奉行矢部 駿河守参府後、山城守は折々西組与力を呼寄せて用向を談じ、又 与力同心共の出勤刻限其他についても、書面を以て注意を加へた ので、さては風説計にても無く、組替等も追々事実となるのであ らうとの疑念から、不平不快の念は組内に充満して居つた、平八 郎が吉見九郎右衛門に向ひ、先役の奉行へは編輯の書物を差出し た所、挨拶として衣類等を贈られ、御用筋の儀も同役を以てお尋 を蒙り、当方も遠慮なく心底を打明け、甚だ愉快であつたと物語 つたは、今の不愉快に対する反証ともいふべきである、公私百般 につき、師匠とも先輩とも仰がれた平八郎は、後輩とも門人とも いふべき東組与力同心の不安に対し、少からず同情を持つたもの と推せらるゝ、山城守の一挙一動は、平八郎の眼に少からず不愉 快に映じたものと考へらるゝ、西組与力内山彦次郎は組違であり ながら山城守の信任を得、兵庫表買米の密使に立つた者であるが、 九郎右衛門の密訴状の最後に、彦次郎は兼々平八郎心に合はざる 旨申居るにより、暴挙の手始として、先づ同人に打懸るやも計り 難しとあるのは、能く此間の消息を示すものと言へやう。

■東組与力同心の不平 その一  評定所の吟味書類を見ると、平八郎の旧同僚に対する同情も亦 挙兵の遠因であつたらしい。之は絶えて他書に見えぬことである が、毛頭疑なき事実である。元来大阪の町奉行所は東西に分れ、 東町奉行所は今の偕行杜の西手に、西町奉行所は本町橋東詰より 北に位し、町奉行は隔月に月番となつて政務を視る。然るに東町 奉行は高井山城守以来曾根日向守次孝・戸塚備前守忠栄・大久保 讃岐守忠実と、代々の町奉行いづれも在職満二年ならずして交替 するので、かやうに交替の頻繁なのは、幕府に対し東町奉行の御 覚目出度からざるに基づき、東町奉行の御覚目出度からざるは、 西組与力同心の取計に因るものであらうといふ風説は、一般に東 組与力同心の間に行はれ、平八郎においても、隠退の身ながら残 念に存ずるといつたと、平山助次郎の申立にある。  東組与力同心の間に行はれた風説が、どこまで事実であるかを 証明するのは難かしい。然し天保七年三月大久保讃岐守が辞職し たのは一心寺事件に因るといはれる。一心寺の住職が寺内に東照 宮の廟を設けようといふ野心から、先づ東組の与力を抱込み、讃 岐守の手を経て幕府に申立てた所、寺杜奉行所の調査によつて姦 計忽ち露見し、平八郎の伯父に当る大西与五郎その外多数の東組 与力が江戸に召喚せられ、厳重な取調を受けた。この不始末によ り讃岐守は町奉行を免ぜられ、また与五郎は余り心気を労したと 見え、爾来痴呆の如くなつたといふ。この春、平八郎が文武の授 業を廃し、来客を謝したのは、「一己の深慮」によると称してゐ るが、親戚や多数の門人の江戸召喚に対する遠慮がその一つであ つたらう。 ■その二  それから天保七年七月讃岐守の後任とし跡郡山城守が着任した 時、又もや一つの風説が行はれた。それは東組与力同心の風儀宜 しからず、或は動向未熱なるあり、或は自己の意見のみ主張し、 一向町奉行の命に順はざるあり、この儘見遁しては奉行の役前に も関係する次第故、取調の上外組与力同心へ組替を命じ、御用向 は西組与力より助役することに致さば宜しからんなどと、両奉行 で内談があつた。奉行の役替は公辺不首尾の故でありながら、何 か組の者が用に立たぬからの様に新町奉行が言はれたとの風説で、 組内は勿論平八部も少からず憤慨してゐた所、九月西町奉行矢部 駿河守参府後、山城守は折々西組与力を呼寄せて用向を談じ、ま た与力同心共の出勤その他についても、書面を以て注意を加へた ので、さては風説計で無く、組替等も追々事実となるのであらう との疑念から、不平不快の念は組内に充満して居つた。山城守は 実兄水野越前守忠邦が老中であることを恃んだか、組下与力の意 見を用ひず、独断専行の風があつたらしい。平八郎が吉見九郎右 衛門に向ひ、先役の奉行は自分が編輯の書物を差出した所、挨拶 として衣類等を贈られ、また同役を以て御用筋の儀お尋に預り、 当方も遠慮なく心底を打明け、甚だ愉快であつたと物語つたは、 今の不愉快に対する反証ともいふべきである。公私百般につき、 師匠とも先輩とも仰がれた平八郎は、後輩とも門人ともいふべき 東組与力同心の不安に対し、少からず同情を持つたものと推せら れる。然らば山城守の一挙一動は、平八郎の眼に少からず不愉快 に映じたであらう。組与力内山彦次郎は組違でありながら山城守 の信任を得、兵庫表買米の密使に立つた者であるが、九郎右衛門 の密訴状の最後に、彦次郎は兼々平八郎心に合はざる旨申居るに より、暴挙の手始として、先づ同人に打懸るやも計り難しとある のは、能くこの間の消息を示すものと言へよう。


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