決心の時機
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平八郎が挙兵に決心したを何月何日と正確に示し得べきでは無い
が、吉見九郎右衛門の吟味書によると、天保七年十月初旬平八郎
チヤウウチ
竊に九郎右衛門を招き、先般来製造の火薬は格之助丁打の為と称
すれど、実は近年諸国違作打続き、米価高値にて諸民難渋に及び、
既に甲州において一揆相発したりとの風聞あり。当表迚も不時に
異変起るや計り難く、其上当時の政道宜しからず、隠居の身なが
ら世を憂ひ民を弔ふ大義を唱ヘ、計略を以て山城守等を討取り、
御城を始諸役所向其外市中をも焼払ひ、豪家の者共貯置ける金銀
並びに諸家蔵屋敷に囲置ける米穀を、窮民共に分遣し、其上にて
摂州甲山に循籠り、時機を見合せ、大義を成就すべき心底なりと
物語り、檄文の草稿を読聞せ、平山助次郎・瀬田済之助・小泉淵
次郎・渡辺良左衛門・圧司義左衛門・近藤梶五郎・河合郷左衛門・
守口町孝右衛門・般若寺村忠兵衛等は既に承知したれば、九郎右
衛門も同志に加はるべしと勧められ、止むを得ず同意したとある、
丁打一件とは格之助が玉造口同心藤重良左衛門及同人倅藤重槌太
郎を招いて砲術の稽古を始め、来春丁打を為ると称し、多量の火
薬を製造したことで、之は九月から着手した、然らば平八郎の決
意は十月初旬以前多分は九月頃であつたらう、平山助次郎の吟味
書に、渡辺良左衛門が助次郎の宅へ来て、自然異変等あらば忠孝
の為には身命を抛たるべきか、先生のお差図により存念承り度参
上したりといふを聞き、不審に存じたとあるは矢張九月の事で、
若し平八郎に此時既に挙兵の決心があつたとすれば、良左衛門の
口上は容易に了解し得らるゝのであるから、助次郎吟味書中の此
段は、平八郎の決心九月頃なりといふ仮定説を強める。
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平八郎が挙兵に決心したを何月何日と正確に示し得べきでは無
いが、吉見九郎右衛門の吟味書によると、天保七年十月初旬平八
チヨウウチ
郎竊に九郎右衛門を招き、先般来製造の火薬は格之助丁打用と称
すれど、実は近年諸国違作打続き、米価高値にして諸民難渋に及
び、既に甲州において一揆相発したりとの風聞あり。当表迚も不
時に異変起るや計り難く、その上当時の政道宜しからず、隠居の
身ながら世を憂ひ民を弔ふ大義を唱ヘ、計略を以て山城守等を討
取り、御城を始め諸役所向その外市中をも焼払ひ、豪家の者共貯
置ける金銀並びに諸家蔵屋敷に囲置ける米穀を、窮民共に配分し、
然る後摂州甲山に循籠り、時機を見合はせ、大義を成就すべき心
底なりと物語り、檄文の草稿を読み聞かせ、平山助次郎・瀬田済
之助・小泉淵次郎・渡辺良左衛門・圧司義左衛門・近藤梶五郎・
河合郷左衛門、守口町幸右衛門・般若寺村忠兵衛等は既に承知し
たれば、九郎右衛門も同志に加はるべしと勧められ、止むを得ず
同意したとある。大塩邸内における火薬製造着手は九月であるか
ら、平八郎挙兵の決意はこの談話以前、多分は九月頃であつたら
うといひ得る。平山助次郎の吟味書に、渡辺良左衛門が助次郎の
宅へ来て、自然異変等あらば忠孝の為には身命を抛たるべきか、
先生のお差図により存念承りたく参上したといふを聞き、不審に
存じたとあるは矢張九月の事で、若し平八郎に当時既に挙兵の決
心があつたとすれば、良左衛門の口上は容易に了解し得られるか
ら、この一段は、平八郎の決心九月頃なりといふ仮定説を強める
に足りる。然し良左衛門も助次郎も同志を裏切つた人物であり、
その言ふ所を採用するまでには充分の注意を要する。九月の決心
は次項と対照して早きに過ぎはせぬか。火薬製造を以て直ちに挙
兵用とするは、旁証の無い限り、速断の恐がありはせぬか。
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