加盟
連判状
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挙兵の計画に加盟した同志の順序は判然せぬ、九郎右衛門が加入
の勧誘を受けた時、即ち十月初旬には助次郎以下忠兵衛に至る迄、
九名の同志者があつたとあるが、忠兵衛孝右衛門の申口には、板
行刷の檄文を一覧して同志に加入したを十二月とし、助次郎の申
口も同様十二月で、其時済之助・淵次郎・良左衛門・義左衛門・
梶五郎・郷左衛門・九郎右衛門は既に同意したる旨を、平八郎か
ら聞いたとある、さすれば九郎右衛門が九名を挙げたのは同人の
記憶違か、或は平八郎が故に同志の人員を殖して彼に告げたので、
九郎右衛門以前に一味同心したは済之助より郷左衛門に至る六人
であつたらう、それから檄文の裏面及び軍令状―軍令状には金鼓
の懸引及び違令の者を死に処する旨を認めてあつたといふが、従
来の史料中之を掲げてあるものを見たことが無い―に記名調印し
た月日は、九郎右衛門・助次郎・義左衛門が八年正月八日、忠兵
衛孝右衛門は単に正月とのみある、恐くは八日が重立ちたる面々
の調印日であつたらう、第二章第六に於て氏名右肩に▲を附けた
門人中、前記の人々を除き、格之助・宮脇志摩・竹上万太郎・大
井正一郎・儀次郎・才次郎・郡次・九右衛門・源右衛門、伝七・
利三郎・孝太郎・司馬之助・文哉等の人々も居るが、彼等の調印
又は血判は源右衛門伝七が正月十八日、郡次九右衛門が同月廿八
日、正一郎が正月中、竹上万太郎が二月十三日、孝太郎が同月十
五日、司馬之助文哉が二月中、利三郎才次郎は不明、又儀次郎は
連判状には無関係であつた、併し格之助や志摩は親子血族の間柄
故、早くから此企に与つたに相違なく、恐く格之助は第一番の賛
成者であつたらう。
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挙兵の計画に加盟した同志の順序は判然せぬ。九郎右衛門が加
入の勧誘を受けた時、即ち十月初旬には助次郎以下忠兵衛に至る
迄、九名の同志者があつたとあるが、忠兵衛孝右衛門の申口には、
板行刷の檄文を一覧して同志に加入したを十二月とし、助次郎の
申口も同様十二月で、その節済之助・淵次郎・良左衛門・義左衛
門・梶五郎・郷左衛門・九郎右衛門は既に同意した旨を、平八郎
から聞いたとある。さすれば九郎右衛門が九名を挙げたのは同人
の虚言か、記憶違か、或は平八郎が故意に同志の人員を殖して彼
に告げたので、九郎右衛門以前に一味同心したは済之助より郷左
衛門に至る六人であつたらう。それから檄文の裏面及び軍令状――
軍令状には金鼓の懸引及び違令の者を死に処する旨を認めてあつ
たといふが、従来の史料中に見当ら無い――に記名調印した月日
は、九郎右衛門・助次郎・義左衛門が八年正月八日、忠兵衛孝右
衛門は単に正月とのみある。恐らくは八日が主立つた面面の調印
日であつたらう。第二章第六において中斎門人中、前記の人々の
外、格之助・宮脇志摩・竹上万太郎・大井正一郎・儀次郎・才次
郎・郡次・九右衛門・源右衛門・伝七・利三郎・孝太郎・司馬之
助・文哉等の人々が暴挙に加担したと記して置いたが、彼等の調
印血判したは、源右衛門伝七が正月十八日、郡次九右衛門が同月
廿八日、正一郎が正月中、竹上万太郎が二月十三日、孝太郎が同
月十五日、司馬之助文哉が二月中、利三郎才次郎は不明、また儀
次郎は連判状には無関係であつた。それから格之助や志摩は親子
血族の間柄故、早くからこの企に与つたに相違なく、恐らく格之
助は第一番の賛成者であつたらう。
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