Я[大塩の乱 資料館]Я
2006.6.5

玄関へ

「大塩の乱関係論文集」目次


『大 塩 平 八 郎 』 その107

幸田成友著(1873〜1954)

東亜堂書房 1910

◇禁転載◇


 第三章 乱魁
  二 準備 (2)
 改 訂 版


加盟







連判状  

挙兵の計画に加盟した同志の順序は判然せぬ、九郎右衛門が加入 の勧誘を受けた時、即ち十月初旬には助次郎以下忠兵衛に至る迄、 九名の同志者があつたとあるが、忠兵衛孝右衛門の申口には、板 行刷の檄文を一覧して同志に加入したを十二月とし、助次郎の申 口も同様十二月で、其時済之助・淵次郎・良左衛門・義左衛門・ 梶五郎・郷左衛門・九郎右衛門は既に同意したる旨を、平八郎か ら聞いたとある、さすれば九郎右衛門が九名を挙げたのは同人の 記憶違か、或は平八郎が故に同志の人員を殖して彼に告げたので、 九郎右衛門以前に一味同心したは済之助より郷左衛門に至る六人 であつたらう、それから檄文の裏面及び軍令状―軍令状には金鼓 の懸引及び違令の者を死に処する旨を認めてあつたといふが、従 来の史料中之を掲げてあるものを見たことが無い―に記名調印し た月日は、九郎右衛門・助次郎・義左衛門が八年正月八日、忠兵 衛孝右衛門は単に正月とのみある、恐くは八日が重立ちたる面々 の調印日であつたらう、第二章第六に於て氏名右肩に▲を附けた 門人中、前記の人々を除き、格之助・宮脇志摩・竹上万太郎・大 井正一郎・儀次郎・才次郎・郡次・九右衛門・源右衛門、伝七・ 利三郎・孝太郎・司馬之助・文哉等の人々も居るが、彼等の調印 又は血判は源右衛門伝七が正月十八日、郡次九右衛門が同月廿八 日、正一郎が正月中、竹上万太郎が二月十三日、孝太郎が同月十 五日、司馬之助文哉が二月中、利三郎才次郎は不明、又儀次郎は 連判状には無関係であつた、併し格之助や志摩は親子血族の間柄 故、早くから此企に与つたに相違なく、恐く格之助は第一番の賛 成者であつたらう。

 挙兵の計画に加盟した同志の順序は判然せぬ。九郎右衛門が加 入の勧誘を受けた時、即ち十月初旬には助次郎以下忠兵衛に至る 迄、九名の同志者があつたとあるが、忠兵衛孝右衛門の申口には、 板行刷の檄文を一覧して同志に加入したを十二月とし、助次郎の 申口も同様十二月で、その節済之助・淵次郎・良左衛門・義左衛 門・梶五郎・郷左衛門・九郎右衛門は既に同意した旨を、平八郎 から聞いたとある。さすれば九郎右衛門が九名を挙げたのは同人 の虚言か、記憶違か、或は平八郎が故意に同志の人員を殖して彼 に告げたので、九郎右衛門以前に一味同心したは済之助より郷左 衛門に至る六人であつたらう。それから檄文の裏面及び軍令状―― 軍令状には金鼓の懸引及び違令の者を死に処する旨を認めてあつ たといふが、従来の史料中に見当ら無い――に記名調印した月日 は、九郎右衛門・助次郎・義左衛門が八年正月八日、忠兵衛孝右 衛門は単に正月とのみある。恐らくは八日が主立つた面面の調印 日であつたらう。第二章第六において中斎門人中、前記の人々の 外、格之助・宮脇志摩・竹上万太郎・大井正一郎・儀次郎・才次 郎・郡次・九右衛門・源右衛門・伝七・利三郎・孝太郎・司馬之 助・文哉等の人々が暴挙に加担したと記して置いたが、彼等の調 印血判したは、源右衛門伝七が正月十八日、郡次九右衛門が同月 廿八日、正一郎が正月中、竹上万太郎が二月十三日、孝太郎が同 月十五日、司馬之助文哉が二月中、利三郎才次郎は不明、また儀 次郎は連判状には無関係であつた。それから格之助や志摩は親子 血族の間柄故、早くからこの企に与つたに相違なく、恐らく格之 助は第一番の賛成者であつたらう。


「大塩平八郎」目次3/ その106/その108

「大塩の乱関係論文集」目次

玄関へ