火薬製造
作兵衛
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玉造口同心藤重良左衛門の亡父孫三郎は中嶋流の砲術家で、良左
衛門と格之助とは相弟子である、其縁によつて平八郎は良左衛門
父子を我邸に招き、門人中有志の者に砲術を学ばせたが、翌春は
堺七堂ケ浜にて丁打を試むるにつき手伝せよと命じ、九月中より
済之助・淵次郎・良左衛門・梶五郎・郷左衛門、又塾生にては八
十次郎・英太郎、いづれも火薬・棒火矢・炮碌玉等の製造に着手
し、仕法に秘密ありと唱へ、製造場に宛てたる平八郎の隠居所・
格之助の居間附近・又は庭先は、充分戸締をして一切人出入を禁
じた、焔硝や鉛の原料の買入方は庄司義左衛門の役目で、彼は丁
打修行の為だとか、他人に頼まれたとか、何とか口実を作り、十
月から翌年正月へかけ、南本町二丁目高上基兵衛方にて、白焔硝
五十五斤・薩摩硫黄八斤半・棹鉛壱貫目・又同三斤・灰五百目・
鉛三貫目・鵜目硫黄八斤・鷹目硫黄三斤・合薬五斤・松脂三斤を、
代銀三百九十五匁にて追々に買調ヘ、又放火投火等に用ふる葭の
買入方を命ぜられ、之は白宅の垣根の普請に用ふる積で買調へた
分を大塩邸に持参し、指図の如く二尺計に切分けた、火矢に用ふ
る棒は正月某日平八郎から天満北木幡町の大工作兵衛に誂へ、寸
怯恰好につき特別の注文があるから当方へ来て細工して呉れよと
いひ、作兵衛に於ても承知の上大塩邸へ赴き、日夜勉強して削立
てたは、松又は樫にて長さ六尺太さ尺径二寸計の棒二拾本、長三
尺太さ同様の棒十本であつたが、其後両方とも弐尺四五寸に挽切
縮らせた、作兵衛は仕事が忙しいので多分は大塩邸に寝泊し、二
月十八日の晩も同邸に泊つたので、翌日は否応言はさず暴動の仲
間へ引入れられた。
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丁打用として製造せられたにせよ、その火薬は挙兵の際に使用
せられたのである。玉造口同心藤重良左衛門の亡父孫三郎は中嶋
流の砲術家で、良左衛門と格之助とは相弟子である。その縁故に
よつて平八郎は良左衛門及び同人忰槌太郎を自邸に招き、門人中
有志の者に砲術を学ばせたが、明春は堺七堂ケ浜にて丁打を試む
るにつき手伝せよと命じ、九月中より済之助・淵次郎・良左衛門・
梶五郎・郷左衛門及び塾生八十次郎・英太郎をして、火薬・棒火
矢・炮碌玉等を製造せしめ、製法に秘密ありと唱へ、製造場に充
てた平八郎の隠居所・格之助の居間附近・又は庭先は、充分戸締
をして一切人出入を禁じた。焔硝や鉛の原料の買入方は庄司義左
衛門の役目で、彼は丁打修行の為だとか、他人に頼まれたとか、
何とか口実を作り、十月から翌年正月にかけ、南本町二丁目高上
基兵衛方にて、白焔硝五十五斤・薩摩硫黄八斤半・棹鉛壱貫目・
同三斤・灰五百目・鉛三貫目・鵜目硫黄八斤・鷹目硫黄三斤・合
薬五斤・松脂三斤を、代銀三百九十五匁にて追々に買調ヘ、又放
火投火等に用ふる葭は、白宅垣根の普請に用ふる積で買調へた分
を大塩邸に持参し、指図の如く二尺計に切分けた。火矢に用ふる
棒は正月某日平八郎から天満北木幡町の大工作兵衛に誂へ、寸怯
恰好につき特別の注文があるから当方へ来て細工して呉れよとい
ひ、作兵衛も承知の上大塩邸へ赴き、日夜勉強して削立てたは、
松又は樫にて長さ六尺太さ径二寸計の棒二拾本、長三尺太さ同様
の棒十本であつたが、その後両方とも弐尺四五寸に切縮めさせた。
作兵衛は仕事が忙しいので多分は大塩邸に寝泊し、二月十八日の
晩も同邸に泊つたので、翌日は否応言はさず隊列の中へ引入れら
れた。
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