Я[大塩の乱 資料館]Я
2006.6.20

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「大塩の乱関係論文集」目次


『大 塩 平 八 郎 』 その109

幸田成友著(1873〜1954)

東亜堂書房 1910

◇禁転載◇


 第三章 乱魁
  二 準備 (4)
 改 訂 版


大砲









































車台































次右衛門 










軍用品

孝右衛門の居宅の土蔵際に松の大木があつたが、余に枝葉が繁茂 し、風雨の時却て土蔵の痛となるので、去る七月中に伐採し、平 八郎の所望に任せて譲渡した所、平八郎はそれで木砲を作り、来 春丁打用にするといつて九月某日孝右衛門に見せたとある、また 平八郎が高槻藩士柘植牛兵衛の許にある百目筒を懇望し、所持の 刀壱腰及唐画一幅と交換して貰つたのは十一月で、其前後に瀬田 済之助は同組与力由比万之助の父彦之進及堺桜町の鉄砲鍛冶芝辻 長左衛門から百目筒各一挺を借出したが、其計略は中々巧である、 或日済之助は彦之進の所へ来て、所蔵の百目筒破損不用となつた るにつき、御秘蔵の分を借用し、それを見本として新に調製致し たいとある養父藤四郎自筆の手紙を出し、尚口上を以て其旨を演 説した、藤四郎は彦之進の亡父助太夫の砲術の門人である、彦之 進は藤四郎近来長病に伏しながら病中と雖も武を忘れず、感服の 至と一も二もなく貸遣したが、幾日経過つても返却せぬ、催促す れば、鉄砲鍛冶の方へ雛形として廻して御座るから、済次第御返 却とのみの挨拶で釣られて居つた、又済之助が芝辻長左衛門方へ 往つての言葉は、今度新規に百自筒を張立てるにつき、古筒あら ば見せてくれよとあるので、長左衛門も浮として手近の一挺を貸 した、之は十一月のことで、其後注文もなければ返してもくれず、 催促すれば翌春誂へるとの返事、其処で長左衛門は正月廿日頃出 阪して、済之助方へ注文を取りに往つた位であつたが、其時も甘 く言紛かされて帰つた、かくて此二挺は騒乱当日に用ゐられ、乱 後彦之進長左衛門は町奉行所の吟味を受け、幸に無罪とはなつた が、大砲は没収されて仕舞つた、大砲の車台は河合郷左衛門吉見 九郎右衛門両人にて、河州から依頼を受けた石材運送用の車であ ると偽り、幅弐尺長さ三尺のもの壱挺、幅壱尺八寸長さ四尺のも の二挺を、天満今井町の樫木職尼崎屋仁兵衛・同所南森町尼崎屋 仁右衛門・同所北森町鍵屋弥兵衛に注文し、台車三挺真木とも、 都合代銀三百拾三匁三分銀三貫文にて誂へたは十二月のことで、 間もなく出来し、滞なく代銀を支払つた、但し町奉行所の調査に よると、賊徒が乱暴場所へ捨置いた鉄砲は、百目筒三挺巣口四寸 計の木筒弐挺、都合五挺で其内四挺は車台を有し、其台へ一挺は 宮脇志摩守・大井正一郎・白井孝右衛門・橋本忠兵衛、一挺は瀬 田済之助・平山助次郡・柏岡源右衛門、一挺は大塩格之助・庄司 義左衛門・茨田郡次・額田善右衛門、一挺は近藤梶五郎・竹上万 太郎・高橋九右衛門と、平八郎の自筆で認めてあつたといふ、郷 左衛門九郎衛門の誂へたは三挺で、差引一挺は何様して準備せら れたか解らぬ、又賊徒が淡路町に放棄した二挺の外に、三四貫目 玉の木筒一挺が破損のまゝ大塩邸に転つてゐたといふから、木筒 は都合三挺で、其一二は或は孝右衛門の家の松材で作つたものか も知れぬ、又平八郎は江ノ子島東町の次右衛門なる者を欺き、在 方から頼まれた伏樋と称し、木筒又は鉄砲台に用ふる伏樋類似品 を作らしめ、其他にも注文の品があるといつて自邸に引止め、挙 兵の日強いて列中に加へたが、彼は隙を窺ひ逃亡した、斯様に当 日無理に徒党に加へた者共に刀脇差を与へ、又挙兵前竹上万太郎 の刀を研いでやつたり、損傷ある小銃は修復し遣すにより持参せ よと同人に命じたりした所を以て見ると、小銃・槍・刀・脇差等 の蒐集修埋について、相応の準備があつたらしい、松木棒拾本・ 樫木棒同・火打石壱貫目・火打鉄大小七挺・笋掘のみ六挺・草鞋 弐拾五足・表五七桐裏蔦の紋所にて下に二ツ引の印ある提灯弐拾 張を孝右衛門が調製したことは同人の申口に見える。

 孝右衛門居宅の土蔵際に松の大木があつたが、余に枝葉が繁茂 し、風雨の時却つて土蔵の痛となるので、去る七月中に伐採し、 平八郎の所望に任せて譲渡した所、平八郎はそれで木砲を作り、 来春丁打用にするといつて九月某日孝右衛門に見せたとある。ま た平八郎が高槻藩士柘植半兵衛*1の手許にある百目筒を懇望し、 所持の刀壱腰及び唐画一幅と交換して貰つたのは十一月で、之と 前後して瀬田済之助は同組与力由比万之助の父彦之進及び堺桜町 の鉄砲鍛冶芝辻長左衛門から百目筒各々一挺を借出したが、その 計略は中々巧である。一日済之助は彦之進を訪ひ、所蔵の百目筒 破損不用に帰したるを以て、御秘蔵の分を借用し、それを見本と して新に調製致したいとある養父藤四郎自筆の手紙を出し、尚口 上を以てその旨を演説した。藤四郎は彦之進の亡父助太夫の砲術 の門人である。彦之進は藤四郎近来長病に伏しながら病中と雖も 武を忘れず、感服の至と一も二もなく貸遣はしたが、幾日経過つ ても返却せぬ。催促すれば、鉄砲鍛冶の方へ雛形として廻してあ るから、済次第御返却とのみの挨拶で釣られて居つた。また済之 助が芝辻長左衛門方へ往つての言葉は、今度新規に百自筒を張立 てるにつき、古筒あらば見せてくれよとあるので、長左衛門も浮 として手近の一挺を貸した。之は十一月のことで、その後注文も なければ返してもくれず、催促すれば翌春誂へようとの返事、よ つて長左衛門は正月二十日頃出阪して、済之助方へ注文を取りに 往つた位であつたが、その時も甘く言紛らかされて帰つた。かく て百目筒二挺は騒乱当日使用せられ、乱後彦之進長左衛門は町奉 行所の吟味を受ける始末となり、幸に無罪とはなつたが、大砲は 没収されて仕舞つた。大砲の車台は河合郷左衛門吉見九郎右衛門 両人が引請け、十二月河州から依頼を受けた石材運送用の車と称 し、幅二尺長さ三尺のもの壱挺、幅壱尺八寸長さ四尺のもの二挺 を、都合代銀三百拾三匁三分銭三貫文の約束で、天満今井町の樫 木職尼崎屋仁兵衛・同所南森町尼崎屋仁右衛門・同所北森町鍵屋 弥兵衛に注文し、間もなく出来の上、滞なく代銀を支払つた。但 し町奉行所の調査によると、賊徒が乱暴場所へ捨置いた鉄砲は、 百目筒三挺巣口四寸計の木筒弐挺都合五挺で、その内四挺は車台 を有し、一挺はその台へ宮脇志摩守・大井正一郎・白井孝右衛門・ 橋本忠兵衛、一挺は瀬田済之助・平山助次郡・柏岡源右衛門、一 挺は大塩格之助・庄司義左衛門・茨田郡次・額田善右衛門、一挺 は近藤梶五郎・竹上万太郎・高橋九右衛門、と平八郎の自筆で認 めてあつたといふ。郷左衛門九郎衛門の誂へたは三挺で、差引一 挺は何様して準備せられたか解らぬ。また賊徒が放棄した木筒二 挺の外に、三四貫目玉の木筒一挺が破損のまゝ大塩邸に転つてゐ たといふから、木筒は都合三挺で、その中に孝右衛門の家の松材 で作つたものがあつたであらう。平八郎は江ノ子島東町の次右衛 門なる者を欺き、在方から頼まれた伏樋と称して木筒類似品を作 らしめ、その外にも注文の品があるといつて屋敷に引止め、挙兵 の日強ひて次右衛門を列中に加へたが、彼は隙を窺ひ逃亡した。 当日列中に加はつた者共に刀脇差を与へ、また挙兵前竹上万太郎 の刀を研いでやつたり、損傷ある小銃は修復し遣はすにより持参 せよと同人に命じたりした所を以て見ると、小銃・槍・刀・脇差 等の蒐集修埋について、相応の準備があつたらしい。松木棒拾本・ 樫木棒同・火打石壱貫目・火打鉄大小七挺・笋掘のみ六挺・草鞋 二拾五足・表五七桐裏蔦の紋所にて下に二ッ引の印ある提灯二拾 張を孝右衛門が調製したことは同人の申口に見える。


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