Я[大塩の乱 資料館]Я
2006.6.26

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「大塩の乱関係論文集」目次


『大 塩 平 八 郎 』 その110

幸田成友著(1873〜1954)

東亜堂書房 1910

◇禁転載◇


 第三章 乱魁
  二 準備 (5)
 改 訂 版


檄文の彫刻


次郎兵衛





印刷








配布

孝右衛門及忠兵衛は十二月に版行刷の檄文を見たとある、之を彫 刻したは北久太郎町五丁目の版木師次郎兵衛で、横に五六字づゝ 活字の駒のやうに彫れといふ注文であつたのは、もし普通の版木 のやうに版下を貼付けて彫らしては、直に檄文といふことが露願 するから、それを防ぐ為で、彫刻出来の後平八郎は英太郎八十次 郎両人に命じ、夜中に之を摺らしめた、檄文は西ノ内美濃紙とも いふ五枚続に印刷し、鬱金色の加賀絹の袋に入れ、袋の上には 「天より被下候」と中央に題し、脇書に「村々小前のものに至迄 へ」と記し、裏には伊勢大神宮の御祓を結付け、上田孝太郎額田 善右衛門等をして配布せしめたが、何分大塩党が僅に一日にて潰 散したる為、案外広く分配せられなかつたやうで、数年来心懸て ゐながら未だ一度も実物を見ない、往来に落散つてゐました、何 人とも知れず家内へ投入れました、イヤ小児に渡して行過ぎまし                       カスガエ た、といつて檄文を届出てた村々は、摂津にては沢上江村・稗島 村・赤川村・野里村・天王寺庄・加嶋村・大和田村・上福島村・ 森小路村・光立寺村・下三番村・海老江村・三津屋村・新在家村、 河内にては池田中村・同下村・池田川村位のもので、此外後難を 恐れ、届出にも及ばずして焼棄したのも多からう、後難といへば 篠崎小竹が檄文の写を所持し、故あつて町奉行所から其出所を取 調べられた時、肥前屋又兵衛即ち呉策といふ書家から借りて写し ながら、坂本鉉之助から借りたと嘘言を吐いた為、露顕の暁儒業 にあるまじきことゝいつて、五十日間お預になつた話がある、次 郎兵衛は檄文のみならず、平八郎施行の引札壱万枚に対する版木 をも彫刻し、更に壱万枚増摺の為と称して版木彫直の注文を受け、 摺師源兵衛竹松と共に挙兵の前日大塩邸に赴き、其夜一泊した為、 次右衛門同様の目に遭つた。

 孝右衛門及び忠兵衛は十二月に木版刷の檄文を見たとある。彫 刻者は北久太郎町五丁目の版木師次郎兵衛で、毎行五六字づつ横 に活字の駒のやうに彫れといふ注文であつたのは、もし普通の版 下のやうに文章を縦書にしたものをそのまゝま貼付けて彫らして は、直ちに檄文といふことが露願するから、それを防ぐ為であつ た。彫刻出来の後平八郎は英太郎八十次郎両人に命じ、夜中に之 を摺らしめた。檄文は西ノ内美濃紙ともいふ五枚続に印刷し、鬱 金色の加賀絹の袋に入れ、袋の上中央に「天より被下候」、脇書 に「村々小前のものに至迄へ」と記し、裏に伊勢大神宮の御祓を 貼付け、挙兵の当日上田孝太郎額田善右衛門等をして配布せしめ たが、何分大塩党が僅々一日で潰散したため、案外広く配布せら れなかつたやうである。往来に落散つてゐました、何人とも知れ ず家内へ投入れました、イヤ宅の小児に渡して行過ぎました、と いつて檄文を届出でた村々は、摂津では沢上江村・稗島村・赤川 村・野里村・天王寺庄・加嶋村・大和田村・上福島村・森小路村・ 光立寺村・下三番村・海老江村・三津屋村・新在家村、河内では 池田中村・同下村・池田川村位のもので、この外後難を恐れ、届 出に及ばずして焼棄したのもあつたらう。後難といへば篠崎小竹 が檄文の写を所持し、町奉行所から出所を取調べられた時、肥前 屋又兵衛即ち呉策といふ書家から借りて写しながら、坂本鉉之助 から借りたと嘘言を吐いた為、露顕の暁儒業にあるまじきことと あつて、五十日間お預になつた挿話がある。次郎兵衛は檄文のみ ならず、平八郎施行の引札の版木を彫刻したが、右引札一万枚増 摺のため、版木彫直の要ありといはれ、摺師源兵衛竹松と共に挙 兵の前日大塩邸へ行つて一泊し、次右衛門同様の目に遭つた。


坂本鉉之助「咬菜秘記」その48
「大塩平八郎」目次3/ その109/その111

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