檄文の彫刻
次郎兵衛
印刷
配布
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孝右衛門及忠兵衛は十二月に版行刷の檄文を見たとある、之を彫
刻したは北久太郎町五丁目の版木師次郎兵衛で、横に五六字づゝ
活字の駒のやうに彫れといふ注文であつたのは、もし普通の版木
のやうに版下を貼付けて彫らしては、直に檄文といふことが露願
するから、それを防ぐ為で、彫刻出来の後平八郎は英太郎八十次
郎両人に命じ、夜中に之を摺らしめた、檄文は西ノ内美濃紙とも
いふ五枚続に印刷し、鬱金色の加賀絹の袋に入れ、袋の上には
「天より被下候」と中央に題し、脇書に「村々小前のものに至迄
へ」と記し、裏には伊勢大神宮の御祓を結付け、上田孝太郎額田
善右衛門等をして配布せしめたが、何分大塩党が僅に一日にて潰
散したる為、案外広く分配せられなかつたやうで、数年来心懸て
ゐながら未だ一度も実物を見ない、往来に落散つてゐました、何
人とも知れず家内へ投入れました、イヤ小児に渡して行過ぎまし
カスガエ
た、といつて檄文を届出てた村々は、摂津にては沢上江村・稗島
村・赤川村・野里村・天王寺庄・加嶋村・大和田村・上福島村・
森小路村・光立寺村・下三番村・海老江村・三津屋村・新在家村、
河内にては池田中村・同下村・池田川村位のもので、此外後難を
恐れ、届出にも及ばずして焼棄したのも多からう、後難といへば
篠崎小竹が檄文の写を所持し、故あつて町奉行所から其出所を取
調べられた時、肥前屋又兵衛即ち呉策といふ書家から借りて写し
ながら、坂本鉉之助から借りたと嘘言を吐いた為、露顕の暁儒業
にあるまじきことゝいつて、五十日間お預になつた話がある、次
郎兵衛は檄文のみならず、平八郎施行の引札壱万枚に対する版木
をも彫刻し、更に壱万枚増摺の為と称して版木彫直の注文を受け、
摺師源兵衛竹松と共に挙兵の前日大塩邸に赴き、其夜一泊した為、
次右衛門同様の目に遭つた。
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孝右衛門及び忠兵衛は十二月に木版刷の檄文を見たとある。彫
刻者は北久太郎町五丁目の版木師次郎兵衛で、毎行五六字づつ横
に活字の駒のやうに彫れといふ注文であつたのは、もし普通の版
下のやうに文章を縦書にしたものをそのまゝま貼付けて彫らして
は、直ちに檄文といふことが露願するから、それを防ぐ為であつ
た。彫刻出来の後平八郎は英太郎八十次郎両人に命じ、夜中に之
を摺らしめた。檄文は西ノ内美濃紙ともいふ五枚続に印刷し、鬱
金色の加賀絹の袋に入れ、袋の上中央に「天より被下候」、脇書
に「村々小前のものに至迄へ」と記し、裏に伊勢大神宮の御祓を
貼付け、挙兵の当日上田孝太郎額田善右衛門等をして配布せしめ
たが、何分大塩党が僅々一日で潰散したため、案外広く配布せら
れなかつたやうである。往来に落散つてゐました、何人とも知れ
ず家内へ投入れました、イヤ宅の小児に渡して行過ぎました、と
いつて檄文を届出でた村々は、摂津では沢上江村・稗島村・赤川
村・野里村・天王寺庄・加嶋村・大和田村・上福島村・森小路村・
光立寺村・下三番村・海老江村・三津屋村・新在家村、河内では
池田中村・同下村・池田川村位のもので、この外後難を恐れ、届
出に及ばずして焼棄したのもあつたらう。後難といへば篠崎小竹
が檄文の写を所持し、町奉行所から出所を取調べられた時、肥前
屋又兵衛即ち呉策といふ書家から借りて写しながら、坂本鉉之助
から借りたと嘘言を吐いた為、露顕の暁儒業にあるまじきことと
あつて、五十日間お預になつた挿話がある。次郎兵衛は檄文のみ
ならず、平八郎施行の引札の版木を彫刻したが、右引札一万枚増
摺のため、版木彫直の要ありといはれ、摺師源兵衛竹松と共に挙
兵の前日大塩邸へ行つて一泊し、次右衛門同様の目に遭つた。
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