目安役並に証
文役
天保元年辞
職
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文政元年六月祖父政之丞歿してて平八郎家督を継ぎ、同三年及
七年の役人鑑には目安役並に証文役中に其名を列し、十年の役
人鑑には吟味役に進み、天保元年には辞職して仕舞うた、役人
鑑は年々二回の出版物であるから、之が悉く整つて居ると、役
付の次第が明白になるのであるが、残念ながら只今はこれ丈外
解らぬ、されば彼が真の在職は前後を通じて僅かに十三年に過
ぎず、役付としては寺社役・川役・地方役、之を三役といつて、
重なる位置であるが、それにもならずに退いたのである、併し
在職中の功績は中々に多い、平八郎自ら(一)耶蘇の邪党を京摂
の間に捕索したる事、(二)猾吏姦卒を糾察したる事、(三)浮屠
の汚行を沙汰したる事の三件を挙げ、以上は実に官長高井公の
知遇に感憤し、禍福利害を度外に措いて邁進した結果であると
言つて居る、高井公は即東町奉行高井山城守実徳を指すので、
三件共に文政文政十年以後即ち平八郎が吟味役になつてからで
あるが、其外にも色々の逸話が伝はつて居る、尤も逸話伝説の
常として年月を示しては無いが、多分三件以前の事と推測せら
るゝ。
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定町廻
平八郎は文化十四年に定町廻となり、翌十五年即ち文政元年
には日安役并証文役に、文政九年には吟味役極印役に進み、翌
十年には盗賊役唐物取調定役を加ヘ、さうして文政十三年即ち
天保元年には辞職してしまつた。文化十四年が果して彼の最初
の役附であるか、また最後の役附は、或書に記した通り、目附
役・地方役・盗賊役・唐物取締・諸御用調役であつたか。年二
回出版の御役録が全部整つて居れば明白になるのであるが、残
念ながら今はこれ丈外解らぬ。これによれば彼の在職は前後を
通じて僅かに十四年に過ぎず、与力の役附としては寺社役・川
役・地方役を三役といつて、最も重要なものとしてゐるが、そ
の一つの地方役になると間も無く退いたのである。
平八郎が在職中に取扱つた三大事件は、三つとも文政十年以
後即ち平八郎が吟味役になつてからの事で、委細は後文に譲り、
先づそれ以外に伝はつてゐる逸話伝説の数條を述べよう。尤も
逸話伝説の常として多くは年月を示して無く、また真偽も容易
に決し難いが、中には年代の分つてゐるものや、事実の正確を
立証し得るものもある。
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