施行の本位
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壱万人に金壱朱宛の施行は莫大の慈悲善根である、併し果して純
粋の慈悲心から出たものか大に疑はざるを得無い、若し之が挙兵
の決意前であるならば、勿論平八郎の一大美挙として伝へたいが、
不幸にして施行の実施せられた二月上旬は、挙兵の計画着々歩を
進め、今や将に爆発せんとする時機である、かゝる場合に臨み窮
民に金銭を恵むは、慈悲心の結果と見んより、寧ろ人心収攬の目
的に出でたりと考ふるが至当であらう、仮に慈悲心に出でたりと
せば、其賑恤の金意は飽迄も平等にあらねばならぬ、三郷町々は
其町会所より窮民数を書上げしめ、又附近町村は、其町村庄屋年
寄より書上げしむる等、成るべく公平に行渡る方法を執らねばな
らぬ、従来の施行が大抵右様の方法によつたことは、天保四五年
の飢饉を見た平八郎の知らぬ筈は無い、然るに彼は今回莫大の賑
恤を為すに当り、普遍平等の法に出でず、門人に託して施行札を
配布せしめた故、之を受けた村々は門人の居村か、或は其附近に
止まつて居る、即ち下に掲ぐる三十三町村中、般若寺村には忠兵
衛・源右衛門・伝七、沢上江村には孝太郎、猪飼野村には司馬之
助、森小路村には文哉、伊丹植松村には善右衛門、守口町には孝
右衛門、門真三番村には郡次九右衛門、弓削村には才次郎*、尊延
寺村には利三郎*がゐる、而も彼等は施行金を渡す時、天満に火事
あらば必ず大塩先生の許へ駈付けよと申渡し、挙兵の日村民を促
して天満に赴いたのもあり、赴かうとして途に潰散したのもある、
賑恤の時機といひ、其範囲の不平等といひ、天満駈付の伝言とい
ひ、又其結果といひ、いづれも今回の施行を以て人心収攬人夫募
集の方便に出づるものと信ぜしむるに足るではないか。
施行を受けし町村
摂津東成郡 般若寺村 善源寺村 沢上江村 下辻村
ウチダイ センバヤシ
内代村 馬場村 関目村 猪飼野村 今市村 千林村
ナギフ
中野村 友淵村 江野村 別所村 中村 葱生村 南島村
上辻村 森小路村
同 川辺郡 伊丹町 伊丹植松村
河内茨田郡 北寺方村 守口町 門真三番村 稗島村
世木村 池田下村 池田中村 池田川村 北島村
同 志紀郡 弓削村
同 渋川郡 衣摺村
同 交野郡 尊延寺村
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壱万人に金壱朱宛の施行は莫大の慈悲善根である。この挙が挙
兵の決意前であるならば、何人と雖も平八郎の一大美挙として伝
ふるに躊躇しないが、施行の実施せられた二月上旬は、挙兵の計
画着々歩を進め、今や将に爆発せんとする時機であつた。また施
行の自的を最も良く達するは、一定の範囲内において公平の方法
を取るにある。従来大阪市中で施行をやる場合は、町々会所から
窮民数を書上げしめ、附近町村なら、その町村の庄屋年寄から書
上げしめてゐる。この仕法は天保四五年の飢饉を見た平八郎の知
らぬ筈はない。然るに今回彼は門人に託して施行札を配布せしめ
た。町会所庄屋年寄によると、門人によると、孰れが普遍平等に
近いか。施行を受けた町村として左の三十三町村――大阪市中と
三島郡の町村名の無いのは不審――が挙げられて居るが、是等の
町村は門人の居村か、或はその附近に止まつて居る。即ち般若寺
村には忠兵衛・源右衛門・伝七、沢上江村には孝太郎、猪飼野村
には司馬之助、森小路村には文哉、伊丹植松村には善右衛門、守
口町には孝右衛門、門真三番村には郡次九右衛門、弓削村には才
次郎、尊延寺村には利三郎がゐる。而も彼等は施行札を渡す時、
天満に火事あらば必ず大塩先生の許へ駈付けよと申渡した。時機
の切迫といひ、範囲の不定、分配の不平等といひ、天満駈付の伝
言といひ、今回の施行を挙兵と無関係に考へるのが至当か、抑も
亦有関係に考へるのが至当か。
■鞭朴
施行を受けた町村
ウチダイ
摂津東成郡 般若寺村 善源寺村 沢上江村 下辻村 内代村
センバヤシ
馬場村 関目村 猪飼野村 今市村 千林村
ナギフ
中野村 友淵村 江野村 別所村 中村 葱生村
南島村 上辻村 森小路村
同 川辺郡 伊丹町 伊丹植松村
河内茨田郡 北寺方村 守口町 門真三番村 稗島村 世木村
池田下村 池田中村 池田川村 北島村
同 志紀郡 弓削村
キズリ
同 渋川郡 衣摺村
同 交野郡 尊延寺村
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