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「大塩の乱関係論文集」目次


『大 塩 平 八 郎 』 その115

幸田成友著(1873〜1954)

東亜堂書房 1910

◇禁転載◇


 第三章 乱魁
  二 準備 (10)
 改 訂 版
方略  

矢部駿河守の参府後、其代として新に西町奉行に任じたは堀伊賀
守利堅で、大阪には二月二日を以て到着した、新町奉行が着任す
ると、同勤の町奉行と共に、三回に分つて市中を巡見する例で、
初度は北組・二度目は南組・三度目は天満組、天満組では堂島の
米市場・天満の青物市場・天満天神社・惣会所等を巡見し、最後
に与力町に廻り、迎方与力の邸に休息する、迎方といふのは江戸
で町奉行の新任があると、直様其組与力同心の総代として、与力
一名同心二名が江戸へ往つて祝詞を述ベ、又奉行在職中は何呉と
なく手許の用を勤め、別して奉行とは親しくなる、此時の迎方与
力を朝岡助之丞といひ、其屋敷は平八郎の向側で、愈々天満組巡
見は二月十九日、朝岡方で休息するのは申刻と定つた、此機に乗
じて不意に起り、両町奉行を大砲にて討止め、引続いて市中に火
を放たうといふのが大塩方の計略で、それから両町奉行所から一
党捕縛の為に出て来る人数を喰止め、彼等の意気を挫かんが為に、
町奉行所附近に放火の手筈を定め、平八郎は之を孝右衛門及其甥
儀次郎に命じた、二月三日孝右衛門は兼て知合の貸座敷渡世豊後
町亀屋金兵衛方に赴き、忰彦右衛門病気につき、出養生のため一
室を借りたいと申入れ、金兵衛方は折悪敷普請中とて謝絶せられ
たが、同人の口入により、同業松江町亀屋新次郎居宅裏手の同人
貸座敷をば、借主を金兵衛の名義とし、一ケ月金一両にて借受く
る約来を結んだ、儀次郎は此時まだ一味に荷担して居らない、十
五日に及び彼は孝右衛門より委細を打明けられ、余儀なく同意し、
孝右衛門同道にて金兵衛方に赴き、孝右衛門から此者は近々彦右
衛門を引移らせるにより、掃除の為連来りたる下人なりと挨拶し、
金兵衛より新次郡へ取次貫ひ、同日より右貸座敷に滞留すること
ゝとなつた。東町奉行所に対して同様の計画の行れなんだは、附
近に適当の貸座敷が無かつた為だといふ、さて十九日となり、儀
次郎は約来の如く今にも孝右衛門が来るかと、平八郎より貰受け
た刀脇差を帯して待受けてゐたが、其中徒党の人数は捕方の為に
打立てられ、散々になつたといふ取沙汰を聞き、急に怖しくなつ
て諸方を逃廻り、終に捕糾となつた、後日右の貸座敷を調べたら、
多量の火薬が床下から出たといふ、以上で一切の準備が整つたの
で、十八日の晩は渡辺良左衛門・近藤梶五郎・庄司義左衛門・孝
右衛門・忠兵衛・源右衛門・伝七・郡次等相集つて平八郎父子と
酒宴を催し、孝右衛門以下は其儘大塩邸に止つて明日を待構へて
ゐた。

 矢部駿河守に代つて新に西町奉行に任じたは堀伊賀守利堅で、
天保八年二月二日大阪に到着した。新町奉行が着任すると、向方
の町奉行と共に、三回に分つて市中を巡見する。初度は北組・二
度目は南組・三度目は天満組、天満組では堂島の米市場・天満の
青物市場・天満天神社・惣会所等を巡見し、最後に与力町に廻り、
迎方与力の邸に休息するを例とした。迎方といふのは江戸で町奉
行の新任があると、直様その組与力同心の総代として、与力一名
同心二名が江戸へ往つて祝詞を述ベ、奉行在職中は何呉となく手
許の用を勤め、別して奉行とは親しくなる。伊賀守の迎方与力を
朝岡助之丞といひ、屋敷は平八郎の向側で、愈々天満組巡見は二
月十九日、朝岡方で休息するのは申刻と定まつた。その時不意に
兵を挙げ、両町奉行を大砲にて討止め、引続いて市中に火を放た
うといふのが大塩方の計略で、それから、両町奉行所から一党捕
縛の為に出て来る人数を喰止め、彼等の意気を挫かんが為に、西
町奉行所附近に放火策を立て、孝右衛門及び同人甥儀次郎がその
任に当つた。二月三日孝右衛門は兼ねて知合の貸座敷渡世豊後町
亀屋金兵衛方に赴き、忰彦右衛門病気につき、出養生のため一室
を借りたいと申入れた処、金兵衛方は折悪敷普請中とて謝絶せら
れたが、同人の口入により、同業松江町亀屋新次郎居宅裏手の同
人貸座敷をば、借主を金兵衛名義とし、一ケ月金壱両にて借受く
る約来を結んだ。儀次郎はこの時まだ一味に荷担して居らない。
十五日に及び彼は孝右衛門より委細を打明けられ、余儀なく同意
し、孝右衛門同道にて金兵衛方に赴き、孝右衛門からこの者は近
々彦右衛門を引移らせるにより、掃除の為連来つた下人なりと挨
拶し、それを金兵衛より新次郎へ取次いで貰ひ、同日より右貸座
敷に滞留することとなつた。東町奉行所に対して同様の計画の行
はれなんだは、附近に通常の貸座敷が無かつた為だといふ。さて
十九日となり、儀次郎は約来の如く今にも孝右衛門が来るかと、
平八郎より貰受けた刀脇差を帯して待受けてゐたが、その中徒党
の人数は捕方の為に打立てられ、散々になつたといふ取沙汰を聞
き、急に怖しくなつて諸方を逃廻り、終に捕縛となつた。後日右
の貸座敷を調べたら、多量の火葉が床下から出たといふ。
 以上で一切の準備が整つたので、十八日の晩は渡辺良左衛門・
近藤梶五郎・庄司義左衛門・孝右衛門・忠兵衛・源右衛門・伝七・
郡次等相会して平八郎父子と酒宴を催し、孝右衛門以下はその儘
大塩邸に止まつて明日を待構へてゐた。


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