Я[大塩の乱 資料館]Я
2006.8.7

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「大塩の乱関係論文集」目次


『大 塩 平 八 郎 』 その116

幸田成友著(1873〜1954)

東亜堂書房 1910

◇禁転載◇


 第三章 乱魁
  三 反忠 (1)
 改 訂 版


平山助次郎
の密訴

謀は充分に垂んとして図らずも同志平山助次郎の反忠により露顕 した、助次郎は天保七年正月町目付となつたが、町目付は組与力 同心共の勤方・市中の風聞・其外奉行の隠密の用を勤める役柄故、 近親の外は同役とも面会せず、自然廃学の姿となつた、但し山城 守に対する平八郎の不平は相弟子共より承知し、且つそれには思 ひ当る事もあるので、若しや奉行所内に組替でもあつては如何に も不外聞と、内々憂慮して居つた所、或日渡辺良左衛門が来て、 自然異変あらば、忠孝の為には身命を抛たるべきか、先生の御申 付により存念承りたしといふを聞き、不審ながら勿論その覚悟で あると答ヘ、其後他の門人よりも折々覚悟は宜しきかと聞かれる ので何分にも解し兼ね、十二月以来両三度夜中平八郎を訪ひ、愈 々挙兵との話を聞き、其場は同意の返答に及び、翌年正月八日良 左衛門が檄文を持参した時には、一義なく其裏面に連判した、さ て二月十五日になり助次郎は自宅に於て良左衛門より、又翌夜は 大塩邸に於て平八郎より挙兵の日限方略等を申渡され、謀叛・叛 逆・不忠・不義・天罰と考出しては矢も楯も堪らず、密訴と決心 はしたが、一味中には役所に出勤して居る者もあるが為、容易に 申出難く、彼是勘弁の上、十七日夜密に跡部山城守役所へ出頭し、 用人野々村次平の取次を以て山城守に面会に及び、謀叛の次第一 味の姓名を告げ、密訴の趣彼等に洩聞えなば、如何なる異変に及 ぶや計り難きにつき、充分御勘考ありたしと申立てた、山城守は 逐一聞終り、内訴の如くならば誠に容易ならず義、本人を留置き、 充分虚実を糺すべき筈ながら、組内には平八郎の門弟数多居るこ と故、洩聞えては取押方に差支ありと咄嗟に決断し、早速一書を 認めて助次郎に渡し、急ぎ江戸表へ罷越し、勘定奉行矢部駿河守 に出訴せよ、表面は急御用にて京都へ出立したることに致し置く といひ、路用等の手筈までしてくれた、助次郎は一旦帰宅の上、 家内の者には様子も告げず、小者多助を従へ、また平生出入の弥 助といふ道中日雇を連れ、十八日暁七ッ時頃大阪を出立し、途中 江戸行の趣を物語り、二十三日今切渡海の節、大阪表大火の由を 聞いてより愈々急行したが、何分大井川の出水川留等にて手間取 れ、漸く二十九日夜六ッ時過を以て、江戸表矢部駿河守役宅へ到 着した、駿河守は是より先き大阪表の急便により事変の大要を承 知せるを以て、直ちに助次郎を呼寄せ、一応取糺の上、三月朔日 老中水野越前守へ宛て、大切の訴人、揚屋入を申付け、病煩等あ りては取調に差支へ、また同人に遺恨を含み、付覗ふ者も無しと も限らねば、当人並に小者二人は大名へお預にしたいといふ伺書 を出し、許可の上同日三州額田郡西大平の城主大岡紀伊守忠愛へ お預となり、数回評定所にての吟味を受け、其後房州勝山藩土酒 井大和守忠嗣へ預替となつたが、助次郎は翌年六月廿七日朝七ッ 半時番人が便所に立つた留守を伺ひ、其詰所の棚にある刀箱から 脇差を取出し、咽喉を突いて自殺して仕舞つた、助次郎の自殺は 旧同志の面々に対して済まぬといふ為であるか、或は厳科に処せ らるゝを憂慮した為であるか、若し前者であるとすれば、最初に 山城守へ訴状を認めて自殺するが適当である、縦令訴状の達せざ るを慮つて自ら訴出たにしても、何故訴終つて即座に自殺せなん だか、駿河守に一部始終を話した其時に自殺せなんだか、評定所 にて数回の吟味を受け、遠からず裁許もあるべしといふ場合にな つてから自殺したとすれば、恐くは彼の自殺の原因は後者であつ たらう、当時忠嗣の屋敷は下谷の広小路に在つて、助次郎並に多 助弥助の居間の間取も明であるが、さして入用でもない故省略し て置く、其後多助弥助両名は無構即ち無罪放免となり、大和守家 来三名は注意不行届の段不埒なりとあつて押込を命ぜられた。

 謀は充分に垂んとして図らずも同志平山助次郎の反忠により露 顕した。助次郎は天保七年正月町目付となつたが、町目付は組与 力同心共の勤方・市中の風聞・その外奉行の隠密の用を勤める役 柄故、近親の外は同役とも面会せず、自然大塩邸へは足遠くなつ た。但し山城守に対する平八郎の不平は相弟子共より承知し、且 つそれには自分に思ひ当る事もあるので、若しや奉行所内に組替 でもあつては如何にも不外聞と、内々憂慮して居つた所、一日渡 辺良左衛門が来て、自然異変あらば、忠孝の為には身命を抛たる べきか、先生の御申付により存念承りたしといふを聞き、不審な がら勿論その覚悟であると答ヘ、その後他の門人よりも折々覚悟 は宜いかと聞かれるので何分にも解し兼ね、十二月以来両三度夜 中平八郎を訪ひ、愈々挙兵との話を聞き、その場は同意の返答に 及び、翌年正月八日良左衛門が檄文を持参した時には、一義なく 裏面に連判した。さて二月十五日助次郎は自宅において良左衛門 から、また翌夜は大塩邸において平八郎から挙兵の日限方略等を 申渡され、謀叛・叛逆・不忠・不義・天罰と考出しては矢も楯も 堪らず、密訴と決心はしたが、一味中には役所に出勤して居る者 もあるので、容易に申出難く、彼是勘弁の上、十七日夜密に跡部 山城守役所に到り、用人野々村次平の取次を以て山城守に面会に 及び、謀叛の次第一味の姓名を告げ、密訴の趣彼等に洩聞えなば、 如何なる異変に及ぶや計り難きにつき、充分御勘考ありたしと申 立てた。山城守は逐一聞終はり、内訴の趣誠に容易ならず、本人 を留置き、充分虚実を糺すべき筈ながら、組内には平八郎の門弟 数多居ることとて、洩聞えては取押方に差支ありと思案し、早速 一書を認めて助次郎に渡し、急ぎ江戸表へ罷越し、勘定奉行矢部 駿河守に出訴せよ。表面は急御用にて京都へ出立したることに致 し置くといひ、路用等の手筈までしてくれた。助次郎は一旦帰宅 の上、家内の者には様子も告げず、小者多助を従へ、また平生出 入の弥助といふ道中日雇を連れ、十八日暁七ッ時頃大阪を出立し、 途中江戸行の趣を物語り、廿三日今切渡海の節、大阪表大火の由 を聞いてより愈々急行したが、何分大井川の出水川留等にて手間 取れ、漸く廿九日夜六ッ時過を以て、江戸表矢部駿河守役宅へ到 着した。駿河守は是より先き大阪表の急便により事変の大要を承 知してゐるので、直ちに助次郎を呼寄せ、一応取糺の上、三月朔 日老中水野越前守へ宛て、大切の訴人、揚屋入を申付け、万一病 煩等あらば取調に差支へ、また同人に遺恨を含み、付覗ふ者も無 しと限らねば、当人並びに小者二人は大名へお預にしたいといふ 伺書を出し、許可の上同日三州額田郡西大平の城主大岡紀伊守忠 愛へお預となつた。その後彼は評定所で数回の吟味を受け、また 房州勝山藩土酒井大和守忠嗣へ預替となつたが、翌年六月廿七日 朝七ッ半時番人が便所に立つた留守を伺ひ、その詰所の棚にある 刀箱から脇差を取出し、咽喉を突いて自殺して仕舞つた。助次郎 の自殺は旧同志の面々に対して相済まぬといふ為であるか、或は 厳科に処せられるのを憂慮した為であるか。遣書もないこととて 判然せぬ。当時忠嗣の屋敷は下谷の広小路に在つて、助次郎並び に多助弥助の居間の間取も明であるが、さして入用でもない故省 略して置く。その後助次郎は取来高のまま御譜代席小普請入を命 ぜられ、多助弥助両名はお構ひなし即ち無罪放免となり、大和守 家来三名は注意不行届の廉で押込を命ぜられた。


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